2011年2月25日金曜日

詩の感動を生み出すコードについて

(エッセイ)

「詩はかくして応答であることが明らかである。(…)自然の、抑制せられぬ欲求に対する応答であることは明らかである。(…)美に対する渇望である」
(ポー「詩の真の目的」1842)


難しいのは、詩の美しさを理解することではない。美的感覚を読解コードとして、記号に用いることである。

美的感覚、哲学的直感はどこから生まれるか。それは認識する過程で生まれる驚きであり、発見である。けれど、その認識は現象なくしては存在しないために認識だけの問題だと解することはできない。

しかし、私たちは無数に転がる現象に対して、意識を開いておかなければ感動することはできず、現象それ自体は美を生み出す要素でしかなく、根源でもない。


こうしたことは、当然のことのように思われるかもしれないが、記号を詩的に読み替えることが事前にコードによって規定されているという指摘は、詩を不可能にするものになる。 (※1)

記号それ自体ではなく、エクリチュールを重要視するドゥルーズやバルトの立場は、詩は不可能だと言っているに等しいのではないか。

そして私もここに賛同するものであり、芸術の目的は詩的作品を生み出すことではなく、詩的コードを生み出すことになったのだ、と考える。


この詩的コードの話は、先日から繰り返している通り、ひどくわかりづらいらしく、なかなか人に話ても理解されない。

私が問題化するのは、詩的コードをいかに再現するか、ということであり、その方法論としては物それ自体が、いかなる言説空間に位置しているかを想定することだと考える。

記号だけでなく、身体もまた世界内存在として言説空間の上に位置を定めているのだから、身体表現の場合にも、物理的な場所、場所の象徴性(コーラ)、そこで発する言葉、行為を想定する必要がある。


言葉によって書かれた詩は、持ち運びが可能で、場所を必要としないが、その詩さえも、読まれる場所と、時間、状況が複合的に絡み合って読解されざるを得ない状況になってしまったのではないかと思う。 (※2)

詩を理解できる人間は、その意味ですべからくコスモポリタンだと言えるわけだが、私はコスモポリタン的想像力を持ち合わせていない。コーラが記号を規定している限り、詩といかに出会うかが、詩の意味を変えてしまう。詩はコスモポリタンのものでない限り、形容詞的装飾を持たねばならない。

ホメーロスを読もうと、キーツを読もうと、古今和歌集を読もうと、どこで読まれるかが重要になる。もちろん、その限定性は限りない限定性を追い求めたいというわけではなく、もう少しゆるやかな、たとえば昼に読むのか、夜に読むのかとか、悲しいときに読むのか、嬉しいときに読むのか、など多少の曖昧さはあっても良いだろう。ただ、同じ読み方はありえない。また詩の理解には、異なる読み方からしか詩を作れ得ないことは、先に指摘したとおりである。

詩は適切なコーラを持ち、適切な感情を持つ。そのコーラと感情は、相反するものではなく、互いに共鳴しあう。従って、厳密な関係を取るというよりは、ある幅を持っている。


演劇が「場」の芸術を志向するならば、コーラと感情(普段の言葉でいえば、合わせてモード)を扱うべきだろうと、私は思う。

演劇が言葉でできること、身体訓練でできることは、一通りできるようになったのではないか。むしろ問題は、ドラマトゥルクの問題であり、フェスティバルの問題であり、制度の問題なのだから、コーラと感情をいかに操作するかが、演出家の仕事と言えるだろう。

また同様に、演劇における詩は、元来詩それ自体ではなく美への欲求であるのだから、劇作家が描くというだけではなく、美を追求する演出家によって生み出されると言ってもなんら不思議はないように思う。


※1・・・ここでいう「詩が不可能」とは、言語による詩、紙に書かれるものとしての詩という意味である。また、エドガー・アラン・ポーの詩論を想定しているもので、モダニズムの詩という意味程度に想定していただきたく思う。
※2・・・携帯できる音楽再生機(ウォークマンのようなもの)やスマートフォンの普及など、本以外のメディアが持ち運び可能になり、文字だけではなく音楽や映像までもいつでもどこでも受容できるようになった視点において、詩的感覚(美への渇望)は言葉で書かれた詩でなくともよくなった。むしろ今日では、音楽がその役割を果たしていると言えるのではないか。ポーもまた音楽が美的渇望を満たしてくれるものとして指摘するが、今では音楽を持ち運ぶことができるようになった。