2011年4月6日水曜日

「生」の問題、演劇の魅力。

(エッセイ)
僕は、演劇の魅力を述べることに対しては、恥ずかしがらず、本心を書いていきたいと思っている。演劇は、「演劇」である限り(つまり、クリシェに帰してしまう)限り、面白くないと思うが、演劇である限りは面白い。


演劇はハイ・アートである。文脈を必要とするし、鍛え上げられた身体を用いる限り、ハイ・アート(高級芸術)という制度の中でしか存在することができない。それを否定することは、難しい。しかし、ハイ・アートであるということが、ヒエラルキーを前提にすべきかどうかと言えば、そうではないだろう。制度や権威というものは、ハイ・アートにとって忌避すべきであると考えなければならない。

演劇は、生身の身体がそこにある限り、大衆芸能(ロー・アート)である。生身の身体は、性欲を駆り立て、暴力欲を駆り立てる。公衆に悪影響を与えるのが、生身の身体であり、情欲に溺れた人間の悪場所を作り出すのが、劇場である。

演劇を楽しめない人間は、きっと「観察」したがっている。額縁を通して世界をのぞき見たい欲求や、本を通じて世界について知りたいという欲求が、「観察」を促す。しかし、演劇は「観察」することができない。観客は劇場の中に「いる」のであって、「観察」しているわけではない。自宅から劇場に足を伸ばした時点で、チケットを窓口で買った時点で、観客は共犯者である。

演劇は、所有できない。複製芸術のようにコピーされた「商品」がそこにあるわけではない。従って、資本と記号を交換することはできない。観客は何故チケット料金を支払うのか。それは演劇のシステムを買うのである。俳優が清潔な体で舞台上に上がれるように、作家が良質な作品を定期的に発表できるように、古典戯曲を現代にリバイバルできるように、観客はそのシステムを買うのである。そのシステムは劇場周辺の文化に依存する。劇場とは、ある街の市場の文化水準の指標である。どんな作品が劇場でかかるか、またどんな劇場を持っている街に住むか。観客は資本を利用して、市場に介入するのである。

演劇の魅力は、今生きている場所が、どこなのかを知ることにある。豪華な衣装を着て劇場に足を運ぶことも、品のない下着姿で劇場に通うことも、自分が今どこにいて、何をしているかを理解させる。永田町の国立劇場に行くこと。それはひとつの体験である。下北沢の小劇場に通うこと、それはひとつのライフスタイルである。演劇は体験を提供する。その体験は、同時代に生きる俳優や作家と共に培われる。俳優もまた、同じ都市に住み、作家も同じ都市に住んでいる。もし電車を利用して遠くから足を運んだとしても、それは地方から都市への移動を必要とする、ひとつの体験である。

演劇の最も難しい問題は、「生」の問題である。演劇は、「生」を内包している。「生」を前提とする芸術は、唯一演劇だけである。観客と俳優が同時代に生きていること。それを客観視すること。この矛盾を弁証法的に解決する手立てが、演劇である。しかし、「生」は見えない。いったいどんな俳優がこの街に住んでいて、どんな生活をしているのか。観客には知る由もない。逆に、俳優にはこの街にどんな観客がいて、何を好んでいるのか、知る由もない。市場は目に見えない力で統率されているが、やはりどんなにがんばっても、見えざる手というのは、見えないのである。

俳優は生きている。生きているからこそ、同時代的に観客を知ることができる。観客も生きている。生きているからこそ、同時代的に俳優を知ることができる。しかしお互いに、どのような生活をしているのかは、知らない。いや、知ることは難しい。演劇は、記号を所有することができないのだから、商品ではない。また、クリシェを忌避するのだから、管理することもできない。演劇は、本当に人間らしい。倫理などというものは、すぐに破られてしまう。男の俳優は、共演者の女優と、すぐに性交渉を持ってしまう。演出家は、権威を利用して、すぐに女優を抱いてしまう。プロデューサーは、見せ掛けの権威をばら撒いて、尊敬されたいと一心に考えている。観客は、古典戯曲を見るという名目で、女優の情欲的な顔を見に来ている。ともすれば、女優のスカートから太ももがチラリと見える瞬間を望んでいる。女優の演じる役柄が、レイプをされ、肌がはだける場面を望んでいる。演劇は、誠に猥雑で、汚らわしい。

しかし、この性欲こそ、演劇の魅力を高めているものであり、演劇だけの特権なのである。舞台では、俳優も観客も、それぞれすましている。しかし、舞台裏ではそれぞれ、情欲を満たすための活動にいそしんでいる。その、舞台裏での「見えない」営為が、演劇を活力付けている。

私はなにも、演劇が性欲のためだけに存在していると言っているわけではない。問題は、演劇は所有できないこと、演劇は商品ではないこと、演劇は市場システムの中でしか活動しないということである。「生きる」ことと、恋愛すること、愛すること、セックスをすること、それは同義である。「生きる」ためには、新たな「生」をつむがなくてはならない。新たな「生」をつむぐために、愛は必要不可欠である。

演劇の魅力とは、まさにこの一点に尽きると私は考える。つまり「強く生きること」にほかならない。生活を精一杯、そして力強く「生きる」こと。その「生」の強さが、演劇の魅力にほかならない。