2011年2月7日月曜日

Kota Yamazaki. Movement Research @ Judson Church. 10.11.2010

2010年11月10日にアメリカ・ジャドソンチャーチシアターで発表したダンサー山崎広太の作品が、ユーチューブに公開されている。

これを動画で見たとき、ダンスは進んだんだ、と何故か思わされた。その理由についてあれこれ考えていたのだが、ようやく考えが整理されてきたので、それを記そうと思う。

ただ断っておかなくてはならないのは、私はこの作品を現地で見たわけではなく、あくまでユーチュブ上でしか見ていないこと、またダンスの批評家ではないこと、ダンス作品を網羅的に見ているわけではないので、かなり私的印象が含まれていることをお詫びしなくてはならない。と同時に、ネット上に公開されているダンス作品の断片から、ダンス一般に論じることについて、多少の戸惑いはありつつも、現地に行かないと見られないという物理的条件を乗り越えることができるという利点から、推進しておきたいとも思う。

山崎広太のこの作品は、ニーチェを引くことでかなり整理されると思う。ニーチェ「悲劇の誕生」の第一章「アポロ的夢幻とディオニソス的陶酔」に「もしわれわれが以下述べるようなことを頭で理解するだけではなく、直接、具体的に確信できるようになれば、美学に寄与することは多いと思う。すなわち、芸術の発展というものは、アポロ的なものとディオニソス的なものという二重性に結びついているということだ。」とある。

山崎のダンスは、ディオニソス的なものを含みつつ、アポロ的なものによって制御・統合され、芸術へと高められているといえるのではないか。

まず、ダンスにおけるディオニソス的なものについて、小論したい。
そもそも、ダンスは国家にとっては忌避される対象であったはずだ。プラトン「国家」には、歌と踊りは模倣であるために、劣っているということが明言され、「イリアス」のような英雄叙事詩が奨励される。

プラトンにとって歌や踊りは模倣的representationであることが、問題視される。悲劇においても同様であることは周知のとおりである。

また、国家による舞踊の排斥は例えば、以下のような例が思い起こされる。
イスラム教圏にとって、歌は認められるが、踊りは認められなかったり、日本でも明治期には踊り手は芸者のごとく排除の対象であったことを、まず確認したい。

ここでは歌一般、舞踊一般が国家にとって排除の対象となったというよりも、女性がエロスを売り物にするという倫理違反が問題視される。

従って、ダンスには根本的には模倣representationと倫理の抵触という二つの「汚点」があるといえる。
ニーチェはディオニソス的なものを「陶酔的現実」と呼び、これは「陶酔=倫理の抵触」と「現実=模倣」と当てはめることができる。

ただ、上に述べたことは根本的な図式に過ぎず、18世紀を通じて歌はオペラとして芸術化していくし、20世紀を通じて舞踊はバレエとして洗練されていく。

この過程を歴史的に考察することは、本旨の目的ではないので割愛するが、対象項としてクラシックバレエをアポロ的なものとして、ここでは述べていくことにする。

日本ではいまだクラシックバレエの方がダンス人口としても観劇人口としてもモダンダンスやコンテンポラリーダンスよりも多く、ブルジョワ的俗悪趣味として受容されている現状があるだろう。

すごくくだけた言い方をすれば、クラシックバレエのタイツ姿もまた「エロい」し、プリマドンナをダンサーとしてではなく、アイドルが如き目で見ることも可能だ、とも思う。クラシックとして洗練されているとはいえ、クラシックバレエに根本的にディオニソス的なものが失われていると考えているわけではない。

ただ、地下アイドルや小劇場の若い娘たちを見るような目では、クラシックバレエは見ないものだし、クラシックバレエはとりあえずのところアポロ的な傾向の方が強いといえる。

クラシックバレエを見る上で前提となっているのは、作品のあらすじを知っており、それがどんな芸術的価値を持っているかを知っていて、ダンサーの技術や振り付けの新演出を見に行くという見方である。従って、観客は名目上「理性的に」ダンスを見ていることになる。ロマンチックバレエの世界観に恍惚的に陶酔するというのと、ディオニソス的に陶酔するというのは異なっている。

従って、クラシックバレエはお芸術であり、アポロ的なものに属すると想定しておこう。

そして、ここからがかなり印象批評の感が否めないのだが、私のダンス鑑賞経験上、王道を行くダンスにはやはり距離感の遠さを感じるのである。

例えば、ローラン・プティやプレルジョカージュの作品である。素晴らしいと思うし、割りに好きなのだが、「遠さ」という面では、近づいていけない印象がある。

同様のことがフォーサイスやピナ・バウシュにも言える。ただ、この二人については、彼ら(彼女ら)にディオニソス的なものが欠けているというよりも、そもそも批判の対象としている「アポロ的なもの」つまり「お芸術」の前提が異なっているために、「遠さ」を免れないのではないかと思う。

これは、全く私的な印象である。おそらくピナ・バウシュは、そのディオニソス的なものによって評価されてきただろうし、日本でも受容されてきただろう。しかし、私にはどこか受け容れられないところがある。その理由はまだ自分でも判然としないが、ピナ・バウシュにおいて「言葉」(つまり「歌」の部分)が少し理知的過ぎるのではないかと思うのである。

少し迂回しつつ話をしていくことを許していただきたく思う。また、日本で2000年代に流行した「コドモ身体」についても、苦言を呈する必要がある。

桜井圭介のいうコドモ身体それ自体の立場に、私は賛同するが、これは日本人の身体そのままを肯定するわけではないはずだ。2000年代には「ダンスは何でもあり」という風潮が漂っていたのではないかと思うが、舞台を横切りさえすればダンスになると考えるのは、安易な発想に過ぎない。

イヴォンヌ・レイナーを筆頭に立ち上がった「ポストモダンスダンス」は、まさに「身体」を問題としたわけだが、この背景には公民権運動やフェミニズム運動、「見られる身体」という政治的背景を鑑みずにはいられない。

日本のコドモ身体が、単に「見られる」だけの「かわいい」身体なのだとすれば、それは性風俗に体を売ることとなんら変わりはなく、若さと才能だけで勝負をしようとするダンスは、正直見るに堪えない。

この問題はディドロが容易に解決してくれる。問題は「偉大なる自然の模倣者」は「自然そのもの」ではなく、その自然的才能を活かすための「冷静な人物」であることが必要なのである。

模倣representationの問題は、ディドロにおいて先見的に、ニーチェからドゥルーズにかけて既に解消されているはずである。スタニスラフスキーやジャック=コポーによって、俳優の「技術」が天然由来の才能を開花させるものであるという前提になったのではないかと思う。

従って、問題はそれが模倣representationかどうかということや、技巧の排除ということではなく、才能(もしくは俳優の身体、自然)を活用する「技術」があるかないかである。

マリーナ・アブラモヴィッチようなアーティストは、自分の身体を見てもらう「技術」があると言えるはずだ。この「技術」こそが、身体を用いる芸術にとって何よりも重要なことなのではないだろうか。

そこで改めて、山崎のダンスに戻るが、フォーサイスのように「技巧的」でもなく、安易なコドモ身体のパフォーマーのように「自然体」であるわけでもない。また、言葉についてもバウシュのように明瞭に単語を発したり、言葉に意味を持たせようとはしない。クラシックバレエのように作品の奥行きを出すわけでもなく、ただ身体の戯れだけがシミュラークルを源泉とするかのように現れている。

ここには、イデアは存在しない。見るべき価値もなければ、語りうる価値もない。意味を読み取ろうとしても無駄である。

さらに言えば、これはダンスでもない。音を発しているために、歌と舞踊を合わせたような構成になっている。「ムーブメント(行為)」としか言いようのない作品である。

この行為の源泉はどこから来るか。おそらく、この行為は歴史を背負ってはいない。晩年の大野一雄のような強靭さはどこにもない。やはり、奥行きが失われている。

ニジンスキーのように情緒的・私秘的な源泉を持つわけでもない。ここでは「山崎広太」という個性さえも滅却されている。

行為は行為をコピーし、また次の行為を生み出す。このダンスにあるのは、ただ行為するというだけであり、行為はいわばシミュラークルを源泉にして成立している。ドゥルーズ風に言えば、「シミュラークルは非感覚的であり、行為(本来はここに「イマージュ」が入る)は感覚的である」のだ。

ただし、この行為は関節や筋肉といった物理的・力学的な身体像を前提にしているはずなので、純粋に「行為だけがある」とは言えないだろう。しかし、見ている限りには、やはり「行為だけがある」と思わされてしまうのである。

山崎のダンスの強靭さを支えているのは、いわば行為と行為の連結の必然性である。
いかにも”自然に”行為から行為へと連続的に流れていく。この”自然さ”が、山崎のダンスでは特筆すべき美点であるのだ。

これを振り付けよう思っても、おそらくはできないだろう。フォーサイスはその点で優れているが、それは同時に欠点でもある。

身体行為は最終的に即興に行き着くだろうし、即興に行き着く芸術は全て個々人の才能や感性をよりどころにせざるを得ない。

ひどく単純なことを言うようだが、それぞれの才能を伸ばすこと、その技術を磨くこと、それが芸術にほかならない。

この原則をニーチェ風に言い直せば、制御不可能な身体というディオニソス神を、いかに理性的なアポロ神が制御するか、その弁証法にこそ芸術の意義があるということである。

私見を述べるにとどまってしまったし、本来ならば現地で見るべきだったのかもしれないが、最近見たダンス作品の中で、私が最も注目し、語りうる価値があると思ったのは、紛れもなく、この作品だったのだ。

Kota Yamazaki. Movement Research @ Judson Church. 10.11.2010