2010年5月3日月曜日

『山月記』に関するノート

未来を掴む――『山月記』に関するノート――

 言うまでもなく、日本の「古典」と数えられる文学作品の一つは中島敦の『山月記』である。
 俗世を離れた李徴が、羞恥心のために虎になってしまい、袁(えんさん)に自らが書いた詩を託すという筋書きである。
 この筋の哀愁を作り出すのは「虎になる」ことにあると思う。俗世というレヴェルから離れるということが「死」によってではなく「動物になる」ことによって表現されている。仮に「俗世」が忌むべき対象、逃れるべき束縛だったとしても、「人間を嫌う」ことによって「理想境」にたどり着くことなく「下界」へといわば輪廻転生してしまう。『山月記』に描かれているのは「不条理なこともある”現実”であるが、そこから逃げてはいけない」という人間精神ではあるまいか、と思う。
 このような隠遁的な性格は仏教的性格にほかならないが、李徴が本当に虎になってしまうことを「恐れて」いるのかどうかは、決定すべきではないし、私にはわからない。
 つまり「隠遁する」とは仙人になること――人間ではなくなることであって、そこだけを抽出すれば「虎」になることもまた「隠遁」であるのだ。
 ただ、これについては詳細な議論は控えたい。仏教的世界観「下界」「現世」「上界」という区分を当てはめれば「動物になること」は「下界」に落ちることであって、李徴にとっては悔やまれることだ、と安直な読みを提示しておく。

 私は『山月記』を上演するとしたら、この物語の美とは「消えていくこと」にあると構想するだろう。
 李徴が袁に語る台詞には、

人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐ろしいことだ。今少し経てば、己の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋れて消えて了うだろう。

 とある。
 私は、ここに「美」を感じるのである。つまり、虎となってしまった李徴はもはや「記憶(=過去)を思い出すこと」でしか人間としての振る舞い(言葉を発する、詩を諳んじること)ができない。これはつまり人間時代の訓練(ディシプリン)が、彼に(今)言葉を発しせしめるということでもある。なぜなら、今まさに彼は虎であるのだから。
 しかし「虎」は、未来に人間ではなくなっていく(つまり過去に人間であったということだ)「私自身(=myself)」を、どうにかつなぎとめようとする。虎にとってはもはや「記憶=過去」が自らを自己同一化(identify)させるのではなく、その場に立ち会った袁(=他者)によってしか「私」を「同一化」することができない。
 つまりこの瞬間というのは「袁」という視線によってのみ、「私」が自覚されているのである。そしてこれを期に、虎は完全に虎になってしまう(たとえそうではないとしても、袁にはそれを知る術はない)。

 李徴が本当に自らの詩を残したいと思っていたかどうかは、やはりわからない。ただ、袁が通りかかった、この瞬間に李徴は自らをパフォーマンスしたということだけがわかるのである。
 「虎」にとっては、過去も未来もない。人間だけが、記憶の中に過去を作り出し、希望の中に未来を作り出す。それが、仏教的世界観の中においても「人間」(=現在)が未来を掴もうとする、この「美しさ」を『山月記』は描いているのである。 
 私が『山月記』を上演するならば、「未来を掴む」この一瞬に、究極の美しさを求めたい。

2010/05/12 
参考:『山月記』全テクスト http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/624_14544.html