2010年5月3日月曜日

個人主義における死のイメージ③

■近代葬儀の成立のために
山:葬儀の成立には死生観があって葬式が起こるというよりも、葬式に参加することで死生観が形成されていく面があります。今の葬式がバッシングされているのは、死後の世界を想像させることができていない点ですね。
よ:社会の変化によって死のイメージが変わってきたわけですよね。しかし、それに合う形式が見つかっていない。今後、どういうことが考えられますか?
山:これは放っておいても変わらないと思います。今までは共同体全体が儀式を変えてきたんですが、共同体がなければ葬儀の形式は変わらない。そこで登場するのが、行政か葬儀社、寺社です。しかし行政は急務の課題ではないのでやりません。そこでやはり、葬儀社が変えていくのだと思います。葬儀社の人たちは今、汚い仕事というよりも文化の担い手だというプライドがあります。ただ、彼らに必要なのはパフォーマンス的考え方だと思います。理念が先行しているので、身体感覚レヴェルでの思考が必要です。私たちは今、遺体を遠ざけてしまっている。(素人の人は)触っていいのかすらわかっていない。本当は遺体をどう扱おうが構わないわけです。今はまだ、(葬儀は)過渡期なんですね。

■儀礼の社会学的分析
山:そもそも儀礼ってリミナリティ(*)の話で言えば、男の人が女に仮装したり。ヒエラルキーを転倒させる場なんです。人はお祭りがあるから社会生活に戻れる。ガス抜きをすることで社会が上手く成立するんです。だから非日常は生活必需品だと思います。エンターテイメントなんかは余暇の産物って言われますけど、非日常的な場に触れるとエネルギーが沸くわけじゃないですか。
 私、調査でラオスに行っていたことがあります。ラオスはトイレがなくて共有していたりとか、キッチンもシステムキッチンじゃないし、冷暖房も整っていないんですが、実は一家に一台カラオケがあるんですよ。
よ:へー、面白いですね。
山:ラオスって社会主義国なんですけど、今は外貨獲得のために貿易をしているんです。企業は国民が生活必需品を買うと思っていたんですけど、カラオケセットを買ったわけですよ。つまりラオスの人は水洗トイレがなくてもいいと感じているんですよね。
よ:生活必需品って言いますけど、その社会における「必需品」って、もちろん違うわけですよね。
山:そう。どのレベルで満足しているか。生活に納得していれば、人が必要とするのは「娯楽」なんだと思うんです。

■現実世界から抜け出る
よ:それはあるフィクションのストーリーに共感するということですか?
山:私にとっては感銘を受けるとか、理性で学ぶことじゃないんです。身体化された現実から、一瞬抜け出るということ。
よ:それは抜け出たあとのエネルギーが大切ですか? 抜け出る瞬間が大切ですか?
山:うーん、どういうことですか?
よ:演劇って何の役に立つんですかって議論で、「元気が出る」とか「ストレス解消になる」とか精神的な健康って、僕はどうでもいいと思うんです。どれくらい抜け出たのかってことが大切だと思うんです。むしろ、自分の中にあるスイートな経験を「引きずっている」とさえ言えるんじゃないですかね。
山:あー、そういうことですか。それは、私もそう思います。でも抜け出るためには、強烈なコンセプトや世界観が必要ですよね。そこの努力を怠っているアート作品とかは、むかつきますね。
よ:そうですね。その強度について考えているんですが、ここが泥沼なんですよ(笑)。