2010年5月3日月曜日

個人主義における死のイメージ②

■散骨について
山:(日本人は)死者に対する異様な雰囲気を感じてると思うんですが、病院で人が死んだり、遺体処理が代行されることで清潔な状態で「死」と接するようになる。すると、悲嘆の処理ばかりになるんです。私個人は、散骨はそれはそれでいいと思うんです。元々自然から生まれた人間を、また自然に返していくというのは、いいと思うんです。しかし、きちんとやらないと、ただ撒くだけになってしまう。そうすると悲嘆の収まりがつかないんですよね。
 例えばお墓参りをしても、散骨の場合はぼーっとしているだけになってしまうんです。お墓がある場合は手続きがありますから。つまり時間がかかるわけですよ。お線香上げたり、お墓を拭いたり。来た人と一緒に話したり。でも散骨の場合はそういうことがないから、悲嘆の処理がないんですよ。
よ:散骨には形式はあるんですか?
山:それがないんですね。個人的にお坊さんが来る場合はありますけど、遺族が主体的に参加する儀礼はありません。
よ:手続きがないと、感情は処理されないですよね。
山:強制的な括りがありませんからね。儀礼はやることに意義がありますから。霊魂が成仏したかどうかよりも、「儀礼が終わったので、悲しむ時間は終わりました」ということが大切なわけです。(元々葬儀は)死を受け入れて、処理して、人生を組みなおすという儀式なので。手続きはあったほうがいいと思います。
よ:散骨には法事はあるんですか?
山:いや、それぞれですね。
よ:結構、グダグダなんですね。
山:そうなんです。

■死後の物語
よ:僕は法事って死後の物語に対するイメージだと思うんですね。つまり死んだ後にも物語が継続されるわけですよね。でも、法事がなくなってしまうと死者に物語がなくなってしまうわけですよね。それは、(死んだ側としても)嫌だと思うんです。
山:初七日とか、四十九日とか。あれは、初七日のときに位牌が変わるんですけど、魂が神様にランクアップしたという設定なんです。初七日、四十九日、一回忌、七回忌っていうように物語が継続されていくんです。
よ:なるほど。
山:今は祭壇形式になってしまったのでわかりづらいですが、お葬式は元々は一連の物語だったんですよね。以前は、「移動の儀式」だったんです。家をぶち抜いて葬列が出る。以前は葬列がメインで、死出の旅路のイメージなんです。それに参加することで、野辺送り(*)と言って、河原で焼いて、墓地に埋めて。帰ってこないように儀式をやる。家を出るときにお茶碗を割るとか。
 でもそれが、大正時代に葬列が廃止されるんですね。それから、「祭壇」が生まれるんです。それはつまり「線の儀礼」から「面の儀礼」になるということです。以降祭壇が豪華になるんです。祭壇は亡くなった人があの世で送っているだろうすばらしい世界を現しているんですね。死出の旅路ではなくて、「今ここで成仏しました」ってことを示すんですね。
よ:僕は死後の世界がわかっているほうが、生きやすいと思うんですよ。
山:安心しますからね。
よ:死の世界は移り行くんだ、ということが実感できるわけじゃないですか。葬列から祭壇に変わることで、死のイメージが旅路からユートピア的なものになったわけですね。
山:そうです。

■死後のイメージ
よ:お経って、霊魂がどういう場所に行ったのかってことを言うんですよね? 確か霊が仏界に行く話しですよね。お経は聞いても意味がわからないけど、法事みたいに時間的なレベルで体験しないと実感できないと思うんですよね。そうじゃないと、仏教的な死とはいえない気がします。
山:私なんかは、イメージはバリエーションがあったほうがいいと思います。物語は細かいほどいいですね。だからこそ新しい形式がないといけないと思います。直葬というのがあって、儀式をしないですぐに遺骨を埋めてしまう。そういう物語を選択する人もいるんですが、よくわからずにグダグダなままに選択してしまうのは良くないと思います。
よ:例えば「自然に返す」のであれば雲散霧消していく先のイメージが必要ですよね。例えば海に返すなら、波の寄せては返す、生がおきてはまた消えていくというイメージ。森に返すのであれば、木々が生気し、生物が淘汰されていくイメージ。
山:体感できるってことが、葬儀の良さだと思うんです。でも今はまだ、場当たり的なんです。葬儀社はアフターケアはしないんですよ。それはお坊さんがやるわけで。だから遺族の人たちは場当たり的になってしまう。まだ過渡的なんですね。やはり形式は必要だと思います。
よ:個人主義、無宗教のイメージを作らないといけないってことですね。
山:そうですね。