2010年5月3日月曜日

個人主義における死のイメージ④

■非現実の強度を担うもの
よ:僕はその強度を担保するものは、物理的なものだと主張しています。例えば、ピラミッドが直線的に作られていることが挙げられます。
山:まあ、あと量とか。
よ:そうですね。「世界観」ってさも現実に存在しないような言い方で言うけれど、強度はフォルムのレヴェルで決まると思うんです。
山:それは当然じゃないですか?
よ:……まあそうか。当然ですよね。
山:例えば「世界観」を良くオーラっていいますけど、オーラを出すために、どうするかって話ですよね。
よ:そうですね。演劇で言っても、リアリズムの作家や批評家なんかは「幽霊」って言葉を使うんですね。台本上の人物ではなく--誤解されがちだから彼らは言うんですが--役それ自体なんじゃなくて、「幽霊なんだ」っていうんですね。自分自身でも、役でもなく、(良い演技とは)幽霊を見せることだっていうんです。目に見えない幽霊的なものを現前化させることがリアリズムなんだ、と。
山:それは役になることとどう違うんですか?
よ:身振りやキャラクターの設定を考えることとは違うんです。もし俳優の背が低くても、背の高い幽霊を見せることができればいいんですね。さっき僕が「物理的」といったのはつまり、ピラミッドの直線は、直線を見せるためのものではなく、幽霊的なものを見せるための直線だということです。ただ、それ以上のことは上手く言えないんですが。
山:(フォルムと言っても)直線を作りたいわけじゃなくて、幽霊を見せるひとつの方法なんですよね。でも、直線だから幽霊が見えるってことでもありますよね。
よ:そこは不可分ですね。

■文化の強度
よ:見えないものを見せることは、文化の強度に関わるものだと思うんです。例えば昨今の(アキバ系)オタク文化は、元々は男の性欲で始まるわけですけど、それがエロじゃくて何なんだ、ってレヴェルにいかないと文化と呼べないと思うんです。つまり見えるものを見えないものにしないと、文化と呼べないと思うんです。
 (個人的な意見ですが)演劇には今、文化としての位相が見えてこないんですね。端的に言えば、やばさ、いかがわしさがなくなってしまっているんです。アングラ時代に対する憧れだとは思いますが、60年代のアングラには「俺たちはいかがわしいことをやっているんだ」っていう雰囲気を感じるんです。でも今は、単にヨーロッパに対する憧れしか感じない。
山:テーマパークこそ、やる気がありませんけどね(笑)。儲からないっていう言い訳はしていますけどね。強度を上げようという気がない。お店をやるのって、物理的に大変じゃないですか。ゲームセンターを運営するだけでも大変なんですよ。でも、お客さんからしたらそれは関係ないじゃないですか。
よ:演劇もそうですよ。
山:そういうことはお客さんにとってはどうでもいいということを、もっと意識しないといけない。

■物理的な問題
よ:物理的な問題で世界観が壊されてしまうってことは、芝居でももちろんありますよ。というか、いつもそうですよ(笑)。
山:くじけちゃダメですよね。
よ:ダメですよ(笑)。
山:致し方ないことってあると思うんですが、致し方ないって終わらせちゃダメですよね。
よ:むしろ、物理的制約あってこそだと思うんです。コンセプトの共有はもちろんなんですが、物理的な制約が出てきたときに、その責任がリーダー(人間)に向かないってことが大切だと思うんです。組織で信じているものが、リーダーだけのものでなくて、部下も持っているってことが必要なんです。そうした環境を作るためには「私がやりたい」とは言えないと思うんです。「私が」と言わないために、イメージを引用する必要があるんです。
 例えば僕が芝居をやるときに「日本の怪奇譚」をテーマにしたとします。そのときに「俺は怪奇譚をやりたい」と言うべきではない。というか、自分でやっていても、「自分がやりたい」とはあまり思わないわけです。だから「日本の怪奇譚」を「僕たちが再現するんだ」という言い方がいいと思うんです。怪奇譚を(僕らが)やるっていうんじゃなくて、怪奇譚的なものを、自分(僕ら)に引き寄せるというのかな。
 世界観を現出させるためには、責任を自分に向けないで、イメージの側に転嫁する。それが必要だと思うんです。それはつまり、私でも、あなたでもなく、そこにあるであろうものを探ることが、世界観を作り出すんだ、って僕は思うんです。

(後半に続く)