2010年5月3日月曜日

個人主義における死のイメージ①

■近代葬儀の成立(1)
よ:ここ50年でできた葬式ってなんなんですか?
山:元々「葬式」っていうのは非日常的なことをする場なんですね。例えばご飯に箸を立てるっていうのは「ここが非日常空間ですよ」ってアピールなんです。
よ:ああ、なるほど。あれって縁起が悪いからやっちゃダメだって言われるけど、むしろ普段やらないから非日常空間でやるんですね。
山:もちろん相互補完しているわけですけど、意味不明なことをやることで非日常空間をかもし出すんです。そこで、「葬式」について言えば、前提として(生きている人は)喪失しているわけです。個人や共同体は、その人をよりどころにして生活をしていたのに欠けてしまう時に行われるわけです。そこで構成員・パーツが抜けてしまった環境を組み直すイベントが、葬式なんです。あれは今まで生きていた人を、死んだという設定、あの世で幸せにしていますよって設定にするんです。
よ:でも共同体が失われてしまうと、それは有効ではなくなってしまうんじゃないですか?
山:そうなんですよ。葬式はそもそも個人のためにやるわけではないので、土地ごとに正しいやり方が決まっていて、その正しい方法に沿って行われることで、(共同体が)組み替えられるんです。しかし、高度経済成長期以降、地方から都会に上京することで人がバラバラになってしまった。
 私が修士論文で書いたのは、地方から東京に来た人の葬式の形態について書いたんですね。地方の人はガイドラインがあるんで、一方では封建的ですが、ある意味では葬式がやりやすい。けれど都会に上京した人は、何をやっていいかわからない。地元での方法は知っているけど、東京でのやり方はわからない。今は特に過渡期で、生活が個人ベースになってきているから「組み換え」が外圧的に要求されずに「自分らしさ」とか、宗教や家制度に対する嫌悪感や、お金がかけられない経済的な状況とか、霊魂の存在を否定する態度とか、いろんな要素が絡まってしまっているんです。その中で葬式をやっているのが彼らなんですね。
よ:葬式が、個別のもので、科学的なものになっていったんですね。
山:そうですね。

■近代葬儀の成立(2)
山:(とはいえ、個人だけではなく)社葬というものもあって、弔辞を読む順番とか、花輪を飾る順番とかで、次に誰が社長の後を継ぐのかってことがわかるようになっているんですね。でも、そうじゃない場合には「葬式だと知らない人を呼ぶのってかわいそう」とか考えるようになって、だんだんと葬儀がこじんまりしていくんです。
よ:「その人らしさ」ですか。でも、葬儀って共同体や組織だけでなく、遺族にとっての個別の意味もありますよね。
山:そうですね。お葬式には、悲嘆の処理という面もあるんです。(死ぬ前に)「自分が死んだらこういう葬式をしてほしい」って言う人もいますけど、やっぱり生きている人が「おじいちゃんらしい葬式をしてあげたい」とかって思うわけです。
 フォーテス(*)が言っているんですけど、人間って親が亡くなると罪悪感を感じるんですね。自分が生きていることの後ろめたさとか。もっと卑近な例で言えば「もう何もしてあげられないんだ」とか。ただ、死んじゃったらしょうがないじゃないですか。それでも死んだ人に対して努力をしてしまうんです。
 だから「亡くなった人らしい葬式をやる」とか、「きちんと葬式をする」って行為になってくるんです。まだ貢献できることがあるっていうレベルで行われているんです。それが悲嘆の処理です。(昔の)葬儀が豪華だった頃は、豪華にするほど、亡くなった人も癒されるだろうってレヴェルがあった。それで生きている人も癒される部分があった。でも今は小さく、アットホームであれば、喜んでくれるだろうという方向になっていく。
よ:つまり葬式の社会性は、失われているんですね。しかし、(個人で行われるとはいえ)寺社が葬式をやるのは、変わらないですよね。
山:お坊さんは、お葬式を仕切る人ではなかったんです。元々は共同体の中に弔い組というものがあったんです。お坊さんは、その中のパーツでしかなかった。しかし共同体がなくなったことで、お坊さんや葬儀社に頼むようになったんです。葬儀社も元々はお葬式に使う道具を貸してくれるものだったんですね。だから上京してきた人にとっては、何が正統かがわからないんですよ。
よ:でも正統ってのは、実際には誰もわからないですよね。そもそも寺社が葬儀を取り仕切っていたわけじゃないんですから。
山:田舎では間違ったことをやると変な目で見られるわけですよ。もちろん今でも「世間」というものがあって、その根拠を求めに葬儀社に相談するんですね。

■死者に対する感性
山:死の処理には四つあって、物理的な処理、霊魂の処理、悲嘆の処理、社会的な処理。死者の魂って、荒ぶるエネルギーを持っているとされているんですね。体から開放されて、魂がすごいエネルギーを発するんですね。
よ:なるほど。死者に対する畏怖の心ってキリスト教圏だと、天国か地獄かだから、日本ほどは大きくないのかもしれませんね。日本だと、人間が神になるわけですからね。
山:そうですね。
よ:タイの葬儀について知っていることがあるんですが、タイの葬儀はお金がすごくかかるんです。葬儀の時には祭りになるんですよ。神様の人形に遺骨を入れて焼くんですね。おめでたいことなんです。
 でもそれがすごく金額がかかるから、集団でやるようになったんですが、まだそれでもかなり高価だから、おじいちゃんの腐った遺体を焼くため働いたりしているんですよね。それは、それだけ家族が強いんだと思うんです。いいことだとは思わないですけど、つまり日本との葬儀の形態は違いますよね。
山:自分が死んだ後にも弔ってもらうということが、どれだけ死に行く人の励みになるかって思うんですよ。ヨーロッパだと、病院の隣に墓地があったりもしますね。日本だとありえないですよね。近代医療にとっては死は負けなので、嫌がるのかもしれませんね。