2009年5月6日水曜日

対談:山本美緒②

■表現に耐えうる身体?
よ:山本さんが物語ではなく身体へって思ったきっかけはなんなんですか? 喉に手を突っ込んで、それが表現だといえますか?
山:自分のやってきたことは、結果的に表現になっただけであって、表現を作ろうと思ってやってきたことはありませんね。
よ:例えば、ピナ・バウシュの場合は舞台上に生理的なものを出すんだけど、意味があるように構成しますよね。
山:ピナの場合は、「からだ」があるから。
よ:ここでいうときの「からだ」ってなんですか?
山:表現に耐えうる「からだ」があるってことですかね。
よ:じゃあ、表現に耐えうる「からだ」ってなんですか? 鍛えなきゃいけない、とか。
山:それも一つの方法ではあると思うんですけど。
よ:鍛えられたダンサーが舞台上で殴られるのが面白い?
山:いや、そうじゃない。
よ:寺山みたいに、特異な身体が出てくるのが面白い?
山:表現する側が「これが私の欲求に基づいているんだ」と考えれば表現ですかね。
よ:じゃあ、山本さんがダンサーに指示するのは、表現にならない?
山:いや、それはなるんじゃないですかね。
よ:どうして?
山:見ている人がいるからかな。
よ:じゃあ、街頭で喧嘩しているのは表現になる?
山:広い意味で言えば表現になるんじゃないかなあ。
よ:酔っ払っているおっさんが喧嘩しているのは表現といえる?
山:例えば、生活をしていて、電車にいい組み合わせのおばさんが向かいに座っていたりして、そこに物語を感じるときがあるんですよね。
よ:……イメージが広がるというか。
山:そうそうそう。
よ:鑑賞者の態度で決まってしまうことになりませんか? 舞台上に三人のおばさんを乗っけても、僕は表現にはならないと思うんですよ。
山:そのときに受けたイメージを再現するためにはどうしたらいいだろうとは考えているんですけど……。よ:その面白さが何故なくなってしまうかと言うと、僕はコードが与えられたときに身体が見えなくなってしまうからだと思うんですね。おばちゃんの場合は、「このおばさんたちのシーンは何の目的があるの?」って考えてしまう。そうなると、身体は見えなくなってしまう。だから僕たちが考えていかなくてはならないのは、作品名や劇場というコードがある上でいかにしてそのイメージを見せるかってことだと思うんですね。日本の現代演劇はポツドールや平田オリザを経由していて、今後考えていかなくてはならない部分だと思う。