2009年5月6日水曜日

対談:山本美緒①

■なにが「リアル」?
よ:まず、僕が最初に議論を始めます。今までの演劇の方法論はメディアとしての信頼が前提となっていた。しかしその信用がなくなってしまったんじゃないか。すると、今の演劇を取り巻く環境というのは、あまりにも脆弱なんですね。具体的に言えば、僕らのレベルのアーティストが作品を作っても一般客が来ないとか。
山:うん。
よ:だからメディアとしての問題ではなく僕らが身体をどう考えているか、何に影響されているか、どういう感性を持っているのかを探っていくことでこの脆弱さを超えていきたいと思っているです。……まず、山本さんが2007年に製作した作品で手を喉に突っ込むということがあったと聞いたんですが、なぜ喉に手を突っ込むことがパフォーマンスになると考えたんですか?
山:そのときは芝居するんじゃなくて物理的にそういう状況を作って、吐くっていうのがリアルだと思ったんですよね。
よ:そんな極限状態まで作る必要はありますか?
山:そのときはそう思ったんですよね。
よ:……どうして?
山:なんでだろう。
よ:ポツドールに影響されたとか?
山:私はそのとき、演劇に見切りをつけていました。ほかの分野にいかないと自分がやりたいことは表現できないって。以前、山田うんさんのワークショップを受けたんですけど、そこでダンスの表現ならいけるんじゃないかって思ったんですね。(※元々早稲田大学「演劇倶楽部」に所属。俳優としても活動する)
よ:早稲田演劇がつまらないと感じていたとか?
山:それはありました。
よ:僕も早稲田の芝居は見ていますけど、「ろりえ」とかですかね。「ろりえ」は面白かった。
山:私がエンクラに入るときはろりえの前で、みんな具象、具象で芝居を作っていた。現実世界を踏襲する形で舞台上に上げていくという形のものが。
よ:リアリストの芝居ですよね。
山:狭い意味のリアリズムですよね。そこが私はつまらないと思った。
よ:早稲田にある芝居って必ずしもリアリスティックなものだけじゃないですか。そっちにはいかなったんですか? セカイ系の芝居とか。それこそ、「ろりえ」とか。なぜ生理的なリアリティに? いわば、ポツドール以上に狭い意味のリアリズムに行ったとも言えてしまうわけじゃないですか。
山:「からだ」に寄りたかったんですね。会話やストーリーで何かを見せるのではなくて、「からだ」に興味があったんですね。ストーリーというものにうんざりしていて。脚本を書いていると、お話にがんじがらめになってしまう。お話の展開から離れられなくて、それが嫌で。ダンスはそういうところから離れられるんじゃないかと思ったんですよ。
よ:僕は、物語を信じられなくなったというのは舞台という制度の信頼が失われたと考えているんですね。映画やテレビドラマにおいては信用はできるんだけど。物語を演じる俳優という制度を無批判には信じられなくなってしまった、と。これをメディアとしての演劇の失墜だと思っているんですね。そこで、次に身体というものが出てくる。さすがに身体を否定するやつはいないだろう、と。しかしポツドールの登場で限界が見えてきた部分がある。具象として見える世界がリアルだということではなくなってきた。僕らは身体を生身のものとしては扱えないと思うんですね。それでお客さんが満足するだろうとは思わない。生身で語れるものは少ない。しかし、身体じゃないと切り取れない何かがあるだろうと思っている。ただ、まだそれが明確に何なのかはわかっていない。……2007年の作品は生理的にリアリティを追求するわけですけど、それからも生理的なところで表現しようと思った?
山:しばらくは、そういう方向でしたね。踏まれるとか、殴られるとか(笑)。