2009年5月5日火曜日

対談:中堀徹④

(対談:中堀徹④)
■アーティストの役割
中:昨日、散歩がてら宮下公園(※NIKEパーク問題として活動家が立ち上がって反対運動を行っている。flea maisonの岡本拓が活動に参加をしている)に行ってきたんですけど、アーティストレジデンスの残骸があったんですよね。雨が降った後っていうのもあって汚いわけですよ。それは表現する上でのソースがあまりに貧困すぎているんです。「みんなの宮下公園」とかって書いてあるんですよ。そこで公共圏ってことを言いたいわけなんだけど、そこである女性が「私たちは自由だ」って書いたりしているんだけど、全然自由に見えない。というかむしろ自由に見えない。自由ってものを表現するソースが貧困で、全然ダメなんですよ。
よ:「自由」ってのは状態であって、言葉にしても意味がないんだよね。言うんじゃなくてさ状況を示さざるを得ないわけでしょ? 俺なんかが思うのは、それを「語る」ってことなんだよ。「自由」って言っちゃったらもうダメ。表面的な言葉ではなく内面化されているものと表象されているものの関係で見ていくべきなんじゃないかと思うんだよね。
中:自由って個々に違って、文脈が違うはずなのに一般的な「自由」で回収しようとする。自由って内面化された個々の文法で表現すればいいんだけど、そうしない。というかそもそもアーティストインレジデンスで表現するって、そこを丁寧に取り上げていくことなんじゃないのかって思ったんですよ。一般化することなんて誰にでもできるわけですよね。宮下公園にアーティストがいるんだから、そこはやるべきだと思ったんですよ。
よ:うんうん。演劇においてもそうで、物語やコードが先んじてしまうとそれは語りにならない。俳優がいかに語るかってことが大切だよね。
中:たとえば文脈を背負うってことに関しては、写真や映画のほうがやりやすいですよね。大木裕之さん(※映像作家。映像における哲学を探求しているのが特徴)の映画は、すごく写真っぽいと思ったんですよ。再現するんじゃなくて、記録する。記録したものを構成することで芸術にすることができてしまう。演劇の場合は、それを「再現」を介さなくてはならない。それが難しいとは思うんですよ。
よ:いや、でもそれはねそもそも写真と映画だけの話でね、絵画においても、音楽においても再現しなきゃいけないって壁は変わらないよ。