2009年5月5日火曜日

対談:中堀徹⑤

(対談:中堀徹⑤)
■作劇法について
よ:俺なんかはさ、演劇の作劇法がもう一歩進められる部分があると思っているんだよ。
中:作劇ですか?
よ:テクストはまだ、儚さを包括できていないんだよ。テクストに儚さを盛り込めていない。そこが作劇がもう一歩進める部分だと思うんだよ。演技については一回性は言われたりしている。けれど一回性を取り込んだテクストというのは作られていない。
中:それは台詞を決めずに「即興する」ってことじゃダメなんですか?
よ:いや、そこにね「どういう即興か」とか「どういう感性か」ってことを書くべきだってことなんだよ。
中:そもそもよこたさんは台詞を書かずに構成することとかってないんですか?
よ:いや、やったことはあるよ。あと、寺山修司の台本とかそういう部分はある。けれど、それが作劇法としてはまだ立ち上がっていない。たとえば、文学においてエッセイという形式が立ち上がってきたように、演劇のテクストに作家の個人史を盛り込むなどして一回性を包括することはできないかなって画策しているんだよ。それが体系化されてもいいだろうしね。…まああとは、評価の問題だな。既存の戯曲賞にはそれを評価する軸はまだないわけだ。
中:音楽の場合、楽譜においては楽譜に絵を描くってこともあったけど、それって演奏家がメチャクチャ上手い人で微細なイメージを取り扱える人じゃないと演奏できないんですよね。
よ:やっぱりそれって、パフォーマーのリテラシーの問題になってしまう? 楽譜やテクストにそうした背景を盛り込むことは不可能なのかな?
中:伝えたいのは結局イメージなわけじゃないですか。蓄積がない人にも伝わるイメージってものがあればいいんですよね。
よ:そうそう、それが表象文化ってものの問題なんだよね。ロゴスではない方法で、ただし誤読されることがないような言語の開発。それが課題なんだよ。アカデミックでもそうだし、現場でもそれを必要としている。
中:諏訪さん(映画監督)の場合も、そういうことはやっているみたいですね。撮影現場の進行と台本を混ぜてみる、とか。諏訪さんがイメージを伝えるだけでなく、諏訪さんがイメージを伝えることもなくシーンが作られたりもするらしい。
よ:それは面白いね。