2009年5月5日火曜日

対談:中堀徹⑥

(対談:中堀徹⑥)
■漫画『シンプルノットローファー』から見るモードという感性
よ:『シンプルノットローファー』(※衿沢世衣子著。女子高生の生活をオムニバス形式で描く)を中堀君は取り上げているけど、これはどうしてモードなの?
中:この漫画はとある女子高の一クラスの話なんですけど、一話に対して一人の女の子を描いていく。女の子たちが風景として描かれている。要は色々な軸があるわけですね。気の強い女の子もいれば、内気な女の子もいる。ここでは、一応のドラマはあるわけですけど、問題が解消されたり、発展したりはしないんですよ。「ちょっと変わりましたね」ってことを暗示して終わる程度に過ぎないんです。つまりモードチェンジをしていくわけですよ。
よ:優位があるわけじゃないから、コードチェンジではなくモードチェンジで進むわけだね。
中:そうそう、作品を通じて人間はこうあるべきだとかっていうのもない。価値観を相対化して差異が強調されるのみなんですよ。これを僕は絶対的な価値観が信じられなくなった後の世代の価値観だと思うんですよ。
よ:たとえば演劇のテクストって、物語がまだあるんだけど、東浩紀風にいえば「キャラクター」だろうけど、このモード的なものが「良い」って思える感性ってなんなんだろうね。
中:絶対がなくて、相対的にしか存在しないってことですかね。相対性理論(※音楽ユニット。電子恩が特徴)とかも、似ている雰囲気がありますしね。それがフラットだということ。あるイデオロギーで前進していくんじゃなくて、身体感覚レベルでそういうのが嫌悪的になっている。無限に日常が続くってことが僕たちにとっては普通でいいも悪いもない世界の身体感覚にいるんじゃないですかね。
よ:ああ良し悪しで言えばさ、コード進行の音楽よりもミニマルミュージックのほうが、鑑賞者のイメージが洗練されてくるんだよね。だから、この漫画について言えば漫画に対するリテラシーや人を見ていく態度が洗練されていくってことか。俺が好きなのは「よつばと!」(※あずまきよひこ著。片田舎でののんびりとした生活を描く)って漫画なんだけど、そこに出てくる女の子は成長するでもなく、事件があるわけでもない。淡々と日常が描かれていく。そういう方法のほうが、読者は「よつば」(※主人公の女の子)の細かい表情が読み取れるようになっていると思うんだよね。
中:知り合いに『シンプルノットローファー』の説明をすると「女子高の内面を表現しているんでしょ」って思われるんだけどそういうことは全くない。あるのは行為とか表情しかないんですよ。そしてそれが上手いんですね。
よ:女子高生の差異が、鮮明に見えてくるわけか。もしこれにストーリーがあったら、差異よりも「誰の物語であるか」ってことが見えてきてしまう。そうすると差異が見えなくなってしまう。「人間を観察する」ってことなのかな、この欲求は。
中:大きな物語の話じゃない場合に、より差異が強調されるわけですよね。モードチェンジというのはダラダラと永遠に続いてしまう。しかし、いくらでもできるからこそ一回性が強調されるわけですよ。「たまたま居合わせた私たち」が劇的になってくるわけですよね。この漫画のラスト、誰もいない学校の描写があるんですけど、そこに「どこにでもある、誰にでもある人間」なんだけど「この漫画に描かれた」という一回性が見えてくるわけですよ。「交換可能なんだけど、ここにいる」っていうのがドラマチックなんですよね。
よ:あー、なるほどね。わかったわかった。俺にはそれがロマンチックに感じられるわけだよ。大切なことは「それがロマンチックだ」って感性があるってことだよね。たとえば「ある女の子が挫折して成長する」っていうコード進行の物語ににロマンチックな気分になれた時代もあっただろうけれど、一方で俺たちは「交換可能だ」って世界に生きているわけだから「交換可能なんだけど、ここにいる」ってことがロマンチックに思えるわけだよ。『ブルーバード』についても、劇的に構成せずにフラットにしようと思ったのはそういうことなのかな。ここに描いた主人公たちは成長したらサラリーマンになるだろうし、ミチルとコウスケは別れもするだろうけれど、この「普通さ」をあえて舞台に上げることがロマンチックなんだってところなんだよ。
中:でも、だからこそ、微細に描かなきゃいけないですよね。
よ:そうそう。だから演劇の場合はイメージを微細にしなきゃいけない。ああ、そうだな、そういうことだ。冒頭のギャグシーンでイメージの差異を提出して、進行していくとモードチェンジしていく。そしてラストシーンでそれを回収する向きに進む。モードチェンジを徹底していきたいね。
中:そうか、そうですね。
よ:見えたね、見えたよ。