2009年5月5日火曜日

対談:中堀徹②

(対談:中堀徹②)
■コードという感性、モードという感性
中:この前、僕の兄とモードジャズについて話したんですよ。音楽としてのモードジャズだけでなく、モード的な世界観ってあるよねってことを思ったんです。……あ、じゃあこの前「たまたま」のイベントに出たときに作った曲を聴いてもらいたいんですけど……(音楽を聴くよこたたかお)モードチェンジっていうのは、永遠に演奏し続けられてしまうんですよ。僕が今回の作曲で良しとしたのは、この永遠に続く音楽をライブで手で引くことには意味があると思ったんですよ。ライブ会場にたまたまいる僕が今ここで、こうすることでこうなる。それがドラマになると思ったんですよ。それを取り違えてしまうと、冗長になってしまう。それはどうしてかっていうと「ライブ」がルールとして規制になっているからなんですよ。たとえば、現代においてコード進行という規制で進めていくものに対する抵抗感が当然のように出てきて、そもそも進む必要はあるのかってことになってくる。一方でモードってダラダラと続いてしまう。永遠に続いてしまう。何千通りも出てきてしまう。ジャズっていうのは、そういう側面があるわけです。でもだからこそ一回性を強調することで、ドラマを取りかえすことができるわけです。
よ:そうか、中堀君が俺の作品で持てる必然性ってそこか。ライブっていうところ。
中:そう、システムは永遠に続くんだけど時間やきっかけで限界が決められているということです。イサドラ(※インタラクティブソフト。映像入力を情報化し、音楽やデジタル表現に変換して出力することができる。『ブルーバード』で使用)についても、これをCDにしてしまうと意味がなくなってしまうわけですよ。でも、それが一回性の上にあれば、許容できるんです。CDで聞くのとは、そもそも鑑賞態度において質が違う。
よ:なるほど。演劇においてはね、再現だから歴史的には再現に耐えうる身体とか物語を追求してきたってことだと思うんだよ。でも複製芸術がメインストリームとして台頭してきたときに、再現の強度ってのは問われなくなってきてしまった。だからライブっていうのも、再現よりも一回性を強調していくように思うんだよね。シェクナーのパフォーマンス研究の成果が非常に大きいとは思うんだけど。そうやって考えるとね、そもそもクラシック音楽っていうのはコード進行を人間の手で弾くことに感動があったと思うんだよね。しかしコード進行の音楽をCDによってデジタル化したときに、完璧に再現される世界は逆に人間への冒涜に感じてしまう。演劇においてもそうで、俳優がお話の筋を理解した上で上演するでしょ? それが面白くないと思ってしまう。一回性にドラマがあるとしたらね、コード進行の芸術というのは複製芸術の場合はドラマチックでなくなってしまうわけだ。
中:複製芸術においては、物語が進むこと自体のドラマが喪失してしまうんですね。