2010年10月29日金曜日

俳優は詩人になれるか。

(エッセイ)
よこたたかお

最近、ミクシイの訴求力が落ちてきているので、ある程度まとまった考えは小金井バラックのほうにも書いていこうかと考えています。


「バラック」の活動は、ゆっくりですが確実な歩みを進めていきたいと思っていますので、ウェブ上というよりも実際に会って話すということを重要視していきたいと思っています。

それでも、考えていることはまとめる必要があるし、知人同士で共有することも大事です。わざわざメールをするのもバカらしいので、ウェブ上でこうして色々な人がひとつのサイトに記事を書いていくのも共有の方法としてはいいと思っています。

今、僕はパリからニューヨークへの演劇の流れについて考えています。もしこれについて詳細なエッセイや記事があればぜひ紹介していただきたいです。

パリの場合、ピカソやグリスが活躍した1960年代辺りには、演劇は不条理の演劇と呼ばれる一群の作品群がありました。これは、「近代演劇の解体」という意味において近代の枠組みに入れられるのではないかと思っています。演劇における素材=上演や身体への純化をモダニズム運動だという考え方もできると思います。

一方で、60年代以降のアメリカはヨーロッパに追いつけ追い越せの時代から、アメリカ独自の演劇理論を立ち上げて展開していきます。ハプニングやイヴェント、パフォーマンスなどの美術理論、演劇理論はニューヨーク独自のものと考えられます。特にジャズを筆頭に即興がアメリカで盛んなことも特徴的な気がします。

「パリからニューヨークへ」という見取り図は、こうしておおまかに取ることができますが、そもそもなぜ「近代演劇の解体が起こったのか」ということは、あまり議論されていないように思います。

僕は、近代演劇を定義する際にはイプセンから始めることに賛成しますが、イプセンは芝居を上演したというよりも、戯曲を書いて出版していたことが大きいのではないかと思うのです。

イプセンから近代演劇を考えた場合に、「戯曲の再現としての演劇」なのか「物語の再現としての演劇」なのかが、ひとつの区分けとして想定できるのではないかと思います。

とはいえ、イプセンの戯曲からは「戯曲の再現としての演劇」の匂いはあまりしません。むしろ、イプセン以降の表現主義作家のほうが、僕は「戯曲中心」の匂いを感じます。メーテルリンクにしても、ハウプトマンにしても、コクトーにしても、イエイツにしても、サルトルにしても、ましてやジュネにしても「戯曲の再現」という匂いを感じてしまいます。

むしろ、イプセンやチェーホフには、そうした匂いは感じ取れず、俳優の声が舞台上で息づいているような印象を受けます。これは「物語の再現としての演劇」を想定している、つまり俳優が舞台上で声を発することを想定していると感じられるのです。

19世紀末の自然主義演劇から1960年代の不条理の演劇にかけて、これをひとつの「近代演劇」とくくるようなパースペクティブを、僕はここでは想定することになります。

ただ、これは単に時代的な区分なので、もうちょっと内容的な問題に入っていきたいと思います。

モリエールやラシーヌなどのロマン主義の作家には、舞台上の俳優の息遣いを感じるし、日本の劇作家でも別役実や唐十郎、つかこうへい、野田秀樹にも感じられます。叙事的演劇を標榜するブレヒトにもそれは感じられます。

この違いは、単に僕の個人的な趣味と片付けられてしまうのかもしれませんが、やはり気になっているところです。

これは俳優の声が、いかなる社会的背景、個人的な状況を背負って「意味」を帯びるか、という点で成功したのか失敗したのかという観点で観測できるのではないかと思っています。

声は、ある社会的なヒエラルキーや環境の中で拘束されて搾り出されます。この、声を取り巻く網目は、常に俳優の身体を取り囲んでおり、これを無視することはできません。

この、声を取り巻く網目に対して、どこまで意識を高められるかが、声の可否にかかっているのではないかと思うのです。

声は、文字と違って、ニュアンスを含まざるを得ません。文字のニュアンスは鑑賞者にゆだねられ、開かれているので発信者が意識をしなくても、時に独立することもあります。

しかし、声は独立した表現になることはありません。したがって、発せられる瞬間、刹那にすら網目が取り巻いているのです。

したがって、声を発することは難しいことではありますが、同時に訓練されて出てくる類のものでもないので、既得権益を得ることはありません。誰にでも、声を特権化することは許されているのです。

この声を、ないものとして想定されていたのが「近代演劇」であり、その特殊性なのではないかと思っています。イプセンというすばらしい作家から始まるものの、俳優の声や身体、上演の一回性を無視した興隆と解体を含んだ運動を「近代演劇」と呼べるのではないかと考えています。

この声は、インターネットの発達によって、より有利な位置に来たのではないかと思っています。
ウェブ上に動画をアップすることが演劇の価値を低めることにはならないと思います。

重要なことは、そこに声があるかどうかです。
テレビは、声を失わせてしまったのかもしれません。しかし、インターネットには声を生み出す力があります。

日本は、今、助成金問題と劇場法の問題から、いかに制度化し、高尚な芸術に高めるかということを目指しているように思いますが、演劇を正当化する手段は声にしかないと思います。

このことは、実践の側からもよく考えられなければならないし、特に俳優はプロデューサーや演出家に従属するというよりも、よき共同者として、自分の声を発見していく必要があるのだと思います。

そうでなければ、俳優はいつまでも、演劇はいつまでも、詩を作ることはできないのではないでしょうか。