2010年10月12日火曜日

「三つの声」10月9日のミーティングから思ったこと

(エッセイ)
「三つの声」よこたたかお



■まえがき
先日10月9日に小金井バラックでの活動が始まったが、これは新しい視点を設けたり舞台芸術に新しい切り口を与えるようなものではない。むしろ、今まで私自身が考えていたことを実践する場であり、過去多くの人たちが取り組んできたことを模倣するような場ですらもある。(これは「小金井バラック」という名前を見れば顕著に理解されると思う)

私が追求してきた問題は、一言でいえば「舞台作品の上演の優位性を認める」ことであった。このこと自体、さして新しい問題ではないし、ましてライブ・エンターテイメント産業においては当然のことである。だが、美学史に視点を変えれば過去、優位が認められてきたのは上演ではなくテクストであり、今日においても過去の偉大な作品に対する挑戦を抜きにして「上演の優位性」を認めることはできない。

■ジャドソン・ダンス・シアターを取り上げる意義
木村覚氏がブログの中で「ただでさえダンスの研究書は翻訳が少ない。このポスト・モダンダンスとりわけジャドソン・ダンス・シアターに関しては、絶望的に少ない。そのことが今日の日本のダンスシーンに起こしている弊害があるとすれば、ちょっとそれは大問題ではないか、と思ったりしています。」と述べている。

そこで木村氏は”Judson Dance Theatre: Performative Traces”の一部翻訳とコメントを自身のブログで公開している。このことは、日本のダンスシーンにとっては貴重なことである。専門家でない限り、外書を読む機会はほとんどないであろう。翻訳が出ていない限り、こうした市井のネット上の情報は非常に貴重なものである。

(木村覚のブログhttp://blog.goo.ne.jp/kmr-sato/c/25588185884a4d0a6d74f328a460eee5)

この小金井バラックの活動は、私だけの活動ではないものの、私自身の問題としていることと、参加者の問題意識の接点は確かにジャドソン・ダンス・シアターに見出すことができる。

今後の私たちの活動の方針を明らかにするとともに、演劇とダンスの接点を見出す一つの切り口として、私が問題としていたことを以下に記しておこうと思う。

■神―詩人―吟遊詩人のヒエラルキー
プラトンの時代から、詩人と吟遊詩人の関係(つまり作者と俳優の関係)は問題とされていた。

プラトンによればミメーシス(模倣)は第三番目の作品を生み出すものとされる。第一番目の作品とは、神が生み出したイデアのことである。第二番目は、イデアに基づいて作られた現実世界のことである。そして第三番目は画家や詩人が生み出すような現実世界をミメーシス(模倣)して作られた作品のことである。

この第三番目の作品を写実的なものだけに限って考えるべきではないが、プラトンの場合にはイデアのミメーシスはありえないとする。なぜならプラトンにとっては純粋な思索によって生み出されるものは哲学であり、詩ではないからである。

この点において、プラトンは詩人の存在を否定する。

一方、アリストテレスは悲劇のミメーシスは人間の本性に従っているとして、叙事的な記述よりも崇高であるとする。プラトンとアリストテレスをめぐってミメーシス(模倣)の意味は対照的となっている。

■17世紀の芸術観、作家主義
だがしかし、私たちが今日「芸術」とみなしているもの、つまり極論すればルーブル美術館に収容されているルネッサンス期の絵画とは「自然を描いたもの」である。ルネッサンス期を境に「目に見える世界」を写実的に描くことが理想とされることになる。これはプラトンやアリストテレスのミメーシスとも異なる。むしろプラトンが「第三の作品」として卑下した対象である。

ディドロは『逆説・俳優について』の中で俳優を「自然の偉大な模倣者」としている。これはキリスト教の唯心論のアンチテーゼとしての唯物論的な美学論である。神(ここでは唯一神のキリストのことだが)から離脱し、人間による人間の表現こそが最上のものとされるのである。たとえばラシーヌの作品にはギリシアの神々が登場するものの、ギリシアの神々はアリストテレス的なイデアのミメーシス(模倣)というよりも、プラトンの「第三の作品」として登場する。ここで、プラトンの時代に最上とされた「イデア」は、「神々の作った、偉大な自然」に代わるのである。

このヒエラルキーにおいて芸術理論は「作家」を第一に置く。作家や詩人とは「自然の代弁者」なのであるから、優位性が認められるのである。これがいわゆる「作家性」である。

長らく演劇やダンス、音楽などの上演芸術は作家を至上とする作家中心主義、作品中心主義がとられてきた。テクスト(楽譜や台本のこと)を再現する主体であるところの俳優、演奏者の地位は作家よりも低く、作家になることこそが芸術家になることであった。

■20世紀の芸術観、エクリチュールという視点
しかし、20世紀に入りドラマの主たる媒体が小説になった時代に上演芸術は「再現」そのものの意義を問い直すことになる。

戯曲やスコアではなく、上演そのものの芸術的意義を認めようとする芸術理論はロラン=バルトによって「エクリチュール」の概念として登場する。

演劇においては作家の時代から演出家の時代へ、音楽においてはスコアから演奏法の時代へ。問われているのは、演出家や指揮者の「解釈」へと変化しつつある。

しかし、こうした潮流は未だに再現の主たる担い手である俳優や演奏者には与えられていない。

ジョン・ケージが提唱するチャンス・オペレーションは上演ではなくスコア作成のための一つの理論である。また、ゴードン・クレイグやアントナン・アルトーは作家主義を否定するものの、それに代わる存在は演出家であるとしている。

これはつまるところ、「テクスト」の意味が言葉から記号へと変わったということにほかならない。言語によって表現はされないが、記号によって表象しうる伝達行為を作り出すのが演出家である。

これは「上演」を意識させはするものの、残念ながら俳優には詩人になれる望みは見られない。

■ジャドソン・ダンス・シアターを研究する意義
こうした現代芸術観とは異なる視点を提示しているのが、イヴォンヌ・レイナーやスティーブ・パクストンなどの振付家である。カニングハムはむしろ振付家の優位性を高めることになったとは言えるが、コンタクト・インプロビゼーションを作り出したパクストンを輩出したこの活動は今日においても充分に考察されるべき研究対象であると考える。

文化人類学的な意味合いで使われる「パフォーマンス」は、むしろ上演者と観客の相互交流にテクストを見出す。ここでは、台本やスコアは用意されるものの、むしろ下位のものとして、上演時間に優位性が与えられる。

しかし、ここで注意しなければならないことは、上演が舞台作品の結節点であるという事実はプラトンの時代から変わっておらず、ディドロに見たように「神」「作者」「俳優」という三者のヒエラルキーの価値転換こそ、私たちが注意して見分けなければならないのである。世阿弥において上演が第一義とされ、能楽師の即興も許されるが、能楽師は自身で謡を作ることが目指される限りにおいて、俳優よりも作者が優位に置かれていると見るべきである。ただ、世阿弥も若く、それだけで魅力を発する年齢を「時分の花」としており、この点において「俳優」が優位に考えられていると分析することができる。

このようにして、20世紀の芸術理論にも混同されている「上演」と「俳優/上演者」の理論は細やかに見ていかなくてはならない。

一つの例として、パクストンのコンタクト・インプロビゼーションにおいてはパフォーマーに優位が置かれているが、これは「重心」と「背骨」に、つまり身体に価値を置いているということができる。

テクストやスコア、振付よりも身体に重きが置かれているという点で、プラトン時代の「神」やディドロ時代の「自然」(唯物論的な自然)ではなく、「身体」にこそ見るべき価値があると解釈することができる。だが、この「身体」とは一体いかなる身体かといえば、物理学を根底とした力学的身体であり、パクストンが「重心」や「背骨」だけに頼ることができず「気」に向かったことも私達は見ていくべきである。


このようにして、上演に優位性を見ようとしたときに細分化して考えなければならない点がいくつもある。

この文章ではそれを記すことはしないが、今後私たちが扱うテーマとして充分に価値のあることなのではないかと考える。

その一つの分析対象としてジャドソン・ダンス・シアターを取り上げることは、的の外れたことではないと考える。以上に書いたことは、私の個人的な見解にすぎないが、今後この活動に参加していただける作家や研究者の皆さまにも参考にしていただいて、それぞれの研究領域と結びつけていただければ幸いである。

小金井バラックという新たな船出を、より内容豊かな、実践的なものにしていければ、これほど幸福なことはない。