(エッセイ)
2010/05/16ワークショップに関する【分析と考察】
まず、このような貴重な機会をいただき、私のわがままに付き合ってくれた参加者の皆様に感謝します。街頭でパフォーマンスをするというのは、慣れていない人(慣れていたとしても)にとっては迷惑だったかもしれません。面白がってやれる人はむしろ少数で、僕みたいな奇特な人間のワークショップを楽しんでくれたことを、心から感謝します。
さて、まずは「パフォーマンス」という語から述べていきたいが、リチャード・シェクナーによれば「自己を超越し」「他者を意識し」「演技者が変容することで、観客が変容すること」である。
これはイヴェントやハプニングと異なり、人前で何か物事を起こせばいいという類のものではない。
また、演説や語りとは異なり「自己を超越すること」が置かれる。
そして「演技者」と「観客」のリミナル(境界)が、そのフィールドだというのである。
演劇やパフォーマンスを実践している人からすれば、言いたいことはわかるが文字にされてもわかりづらいかもしれない。
それを今回は実践した作品群を批評しながら確認していくことにする。
①「50円で売ってます」
まず、この作品は日暮里駅前で行われていたフリーマーケットでのパフォーマンスを狙った。「50円」と書かれた紙を体に貼り付け、自らが「出品物」となる。
周りからの反応があったものの、これは失敗であった。なぜなら「ふざけている」ということがすぐにバレてしまったからだ。
ここにおいて、コミュニケーションは断絶され、単なるアクションとしてしか機能しなかった。
そこで、「演技者の意図」が現実世界の領域(楽しんでいる、ふざけているなど)に属している場合は「パフォーマンス」とは言えないことがわかる。
②「外国人観光客」
そこで、「演じる」ことに重きを置いて、谷中銀座では外国人の振りをして街を歩くことを行った。
このプロットは「変な言葉を話す外国人が来た」「猫に興味津々だ」「変な祈りをささげ始めた」というものを用意した。
しかし、これも失敗してしまった。これはまず「外国人観光客だ」と認知されても、「注目」されることがなかったからだ。
注目されないまま、猫の像の前で祈りをささげたところで「変なやつがいる」程度で終わってしまい、単なるアクションで終わってしまう。
そこで「観客が参加すること」が必要となることがわかった。
③「撮る人撮られる人」
そこで今度は、観客の参加を促すべく「路上で撮影をする」ことによって、行きかう人の足を止めることを思いついた。
これは上手くいき、私たちの前を通る人はおらず、避けるようにして商店街を通過していった。
しかし、これはハプニングであってもパフォーマンスではないと感じた。
なぜならば、ここには「観客の変容」がないからである。だが、この「観客の変容」とは何か。もっと具体的にいえば「ストーリー」があるかないか、ということである。
つまり、「撮影をする人、される人」という事象はあっても、それがどんな人で、どうして撮影をしているのか/されているのかというストーリーが不在であったのだ。
したがって、観客は「参加」することはあっても、それがフィクション(ないしリミナル)の領域に足を踏み入れることなく、現実世界に属したままであったのだ。
ここに「リミナル」という言葉の難しさを感じることになる。つまり、観客を現実世界ではなくフィクションの世界に「参加」させること。これが達成されるべき目標であるのだ。
④「見えない糸」
そこで、フィクションに参加させるべく「見えないものを見せること」つまりパントマイムを行うことにした。
二人が見えない糸を手繰り寄せていく。街を行きかう人々はその「糸」をまたぐわけだが、この「糸」がやっかいなのである。
これがもし目に見える糸であれば上記と変わらない結果になるが、今回は「見えない」つまりフィクションの糸なのである。
最初、糸を気にしない人もでてきたが、サクラによって「またがせる」ことによって、それ以降の人は見えない糸を「またぐ」ようになった。
これによって観客が「フィクションに参加する」ということは達成させられたのである。
しかし、ここにひとつの物足りなさを感じてしまった。
それはフィクションの質である。つまり「ストーリーの内容」にまで私たちは到達できるのではないかと考えたのである。
⑤「路地裏(2)」
そこで、集団心理を利用し「見えないもの」を現前化させる装置を、なるべくわかりやすいものにした。
映像では「覗き見る人」が群がってくるのがわかるが、ポイントはここではない。映像ではわからないが、子供たちが群れをなす私たちの集団に入ってくる。
子供は「ねえ、何があるの?」と言う。そこで演技者の一人が「ねえねえ、あれ見えない?」と声をかける。もちろん、視線の先には何も見えないのだが「俺には見えるけど、君には見えないの?」と声をかけることで「見えない自分」というフィクションが(子供の中で)立ち上がることになる。
子供は路地の奥のほうまで行き、友達とわけもわからず「何か」を探していた。
ここに「見えないものが見える変な人たちの群れ」という怪しげな物語が完成したのである。
これはアレゴリー的な物語ではないものの、子供をフィクションに参加させることによって、子供の身体の質感を変えることに成功したのである。
これは、ほとんど成功と言ってよかった。
わかりやすいプロットではないが、何か異質な世界へと子供を連れていくことができたのである。
だが、ここでまた欲が出てきてしまった。そう「演技者」が変容をしていないのである。
⑥「手を振る」
これは、映像ではほとんどわからないが、構造としてはこうである。
坂の上から見下ろす形で、誰かを呼んでいる。
坂を上る人は「誰を待っているんだろう?」と一瞬、後ろを向いてしまう。後ろを向いた瞬間から、観客はパフォーマンスに「参加」してしまう。
といった筋である。
映像ではほとんどわからないが、手を振る人間にはシチュエーションが用意されており「何故手を振るのか」が設定されている。
手を振ることによって、演技者はその物語をより強化していく。そして、強化された身振り(手を振る)を見た観客は「振り向く」ことで参加する。
そして「この人は、誰を待っているんだろう」と想像をめぐらす。それはつまり観客が「変容」したということである。
ここにはわかりやすい「物語」や上に上げた「路地裏(2)」ほど観客の参加がわかりやすくはない。しかし(演技者もしくは観客になってみればわかるが、)そこには「リミナル」が存在しているのである。
見た目には現実の世界に属しているように見える身体も、「振り向く」ことでそれがフィクションであることがわかる。しかしそのフィクションが、「楽しんでいる」とか「ふざけている」など現実世界に属する目的で行われているわけではないので、「架空の人物の目的」として受け止める。
その「架空の人物の目的」が、ある感情(同情、苛立ちなど)を引き起こす。(ここで私たちは「ずっと人を待っている」「いらだちながら待っている」などの設定をすることができる)観客の想像力はフィクションの領域に向けられる。
すると、(観客が)もう一度手を振っている人を見た時、観客もまた現実にいるのかフィクションの領域にいるのかがわからなくなってしまう。
お互いに、一瞬の変容が生まれる。これがリミナルな空間であり、パフォーマンスである。
この「手を振る」シリーズは、少人数でやったものが成功した。8人でやったものは、どちらかと言えばハプニング的で、パフォーマンス的ではなかったように思う。
非常に地味で、映像ではわからないが、今日の成果ではこれが最もスマートで的確なパフォーマンスであったように思う。
以上の分析から、パフォーマンスにおいて困難なのは「観客を参加させること」が第一にある。
ハプニング的であってはならない。それがフィクションの世界に「参加」することでなくてはならないのである。
そして次に「物語(ストーリー)」や「プロット」「キャラクター」や「背景」の設定である。この設定がなければ、フィクションの世界の質(良し悪し)は問えないのである。
そして最後に重要なことは、「具体的でなくても良い」ということである。観客の参加というが、一概に観客がアクションをすることが「参加」ではない。ただ、「注目」するだけでも、それは参加と言える。また「変容」についても、感化されたり教化されたりすることだけが「変容」ではない。
ここについて、私は的確に表現できる言葉を持ち合わせていないのが、不勉強きわまる部分であるが、「観客の参加」「変容」「物語」は具象的ではなく、抽象的でも「成立」はするのである。(それを端的にあらわすのが「行列」シリーズである。これは具体的な物語は連想されえないが「この人たちは何なんだろう」という想像を膨らませることができる。ここで表現されているのは抽象的な表象であるが、設定がなされている限り「物語」があるということである)
今後は、この「抽象的」な物事についての言葉を私なりに考えていきたいと思う。
ほかにも観客の鑑賞態度の分析、衣装や小道具など目に見えるものの効果について、道なのか広場なのか劇場なのかという場所の問題など、分析対象となるべきポイントはあるが、今回の目的である「パフォーマンス」をイヴェントやアクション、ハプニングとの差異を見出すことにおいては既に達成した。
以上のことは今後のワークショップにおいての課題としたい。