山本友美さん、倉田大輝さん、森崇博さん、倉垣吉宏さん、中堀徹さん、菊川仁史さんとの往復書簡です。
2010年5月3日月曜日
菊川仁史さんからの返信
個人主義における死のイメージ④
■非現実の強度を担うもの
よ:僕はその強度を担保するものは、物理的なものだと主張しています。例えば、ピラミッドが直線的に作られていることが挙げられます。
山:まあ、あと量とか。
よ:そうですね。「世界観」ってさも現実に存在しないような言い方で言うけれど、強度はフォルムのレヴェルで決まると思うんです。
山:それは当然じゃないですか?
よ:……まあそうか。当然ですよね。
山:例えば「世界観」を良くオーラっていいますけど、オーラを出すために、どうするかって話ですよね。
よ:そうですね。演劇で言っても、リアリズムの作家や批評家なんかは「幽霊」って言葉を使うんですね。台本上の人物ではなく--誤解されがちだから彼らは言うんですが--役それ自体なんじゃなくて、「幽霊なんだ」っていうんですね。自分自身でも、役でもなく、(良い演技とは)幽霊を見せることだっていうんです。目に見えない幽霊的なものを現前化させることがリアリズムなんだ、と。
山:それは役になることとどう違うんですか?
よ:身振りやキャラクターの設定を考えることとは違うんです。もし俳優の背が低くても、背の高い幽霊を見せることができればいいんですね。さっき僕が「物理的」といったのはつまり、ピラミッドの直線は、直線を見せるためのものではなく、幽霊的なものを見せるための直線だということです。ただ、それ以上のことは上手く言えないんですが。
山:(フォルムと言っても)直線を作りたいわけじゃなくて、幽霊を見せるひとつの方法なんですよね。でも、直線だから幽霊が見えるってことでもありますよね。
よ:そこは不可分ですね。
■文化の強度
よ:見えないものを見せることは、文化の強度に関わるものだと思うんです。例えば昨今の(アキバ系)オタク文化は、元々は男の性欲で始まるわけですけど、それがエロじゃくて何なんだ、ってレヴェルにいかないと文化と呼べないと思うんです。つまり見えるものを見えないものにしないと、文化と呼べないと思うんです。
(個人的な意見ですが)演劇には今、文化としての位相が見えてこないんですね。端的に言えば、やばさ、いかがわしさがなくなってしまっているんです。アングラ時代に対する憧れだとは思いますが、60年代のアングラには「俺たちはいかがわしいことをやっているんだ」っていう雰囲気を感じるんです。でも今は、単にヨーロッパに対する憧れしか感じない。
山:テーマパークこそ、やる気がありませんけどね(笑)。儲からないっていう言い訳はしていますけどね。強度を上げようという気がない。お店をやるのって、物理的に大変じゃないですか。ゲームセンターを運営するだけでも大変なんですよ。でも、お客さんからしたらそれは関係ないじゃないですか。
よ:演劇もそうですよ。
山:そういうことはお客さんにとってはどうでもいいということを、もっと意識しないといけない。
■物理的な問題
よ:物理的な問題で世界観が壊されてしまうってことは、芝居でももちろんありますよ。というか、いつもそうですよ(笑)。
山:くじけちゃダメですよね。
よ:ダメですよ(笑)。
山:致し方ないことってあると思うんですが、致し方ないって終わらせちゃダメですよね。
よ:むしろ、物理的制約あってこそだと思うんです。コンセプトの共有はもちろんなんですが、物理的な制約が出てきたときに、その責任がリーダー(人間)に向かないってことが大切だと思うんです。組織で信じているものが、リーダーだけのものでなくて、部下も持っているってことが必要なんです。そうした環境を作るためには「私がやりたい」とは言えないと思うんです。「私が」と言わないために、イメージを引用する必要があるんです。
例えば僕が芝居をやるときに「日本の怪奇譚」をテーマにしたとします。そのときに「俺は怪奇譚をやりたい」と言うべきではない。というか、自分でやっていても、「自分がやりたい」とはあまり思わないわけです。だから「日本の怪奇譚」を「僕たちが再現するんだ」という言い方がいいと思うんです。怪奇譚を(僕らが)やるっていうんじゃなくて、怪奇譚的なものを、自分(僕ら)に引き寄せるというのかな。
世界観を現出させるためには、責任を自分に向けないで、イメージの側に転嫁する。それが必要だと思うんです。それはつまり、私でも、あなたでもなく、そこにあるであろうものを探ることが、世界観を作り出すんだ、って僕は思うんです。
(後半に続く)
よ:僕はその強度を担保するものは、物理的なものだと主張しています。例えば、ピラミッドが直線的に作られていることが挙げられます。
山:まあ、あと量とか。
よ:そうですね。「世界観」ってさも現実に存在しないような言い方で言うけれど、強度はフォルムのレヴェルで決まると思うんです。
山:それは当然じゃないですか?
よ:……まあそうか。当然ですよね。
山:例えば「世界観」を良くオーラっていいますけど、オーラを出すために、どうするかって話ですよね。
よ:そうですね。演劇で言っても、リアリズムの作家や批評家なんかは「幽霊」って言葉を使うんですね。台本上の人物ではなく--誤解されがちだから彼らは言うんですが--役それ自体なんじゃなくて、「幽霊なんだ」っていうんですね。自分自身でも、役でもなく、(良い演技とは)幽霊を見せることだっていうんです。目に見えない幽霊的なものを現前化させることがリアリズムなんだ、と。
山:それは役になることとどう違うんですか?
よ:身振りやキャラクターの設定を考えることとは違うんです。もし俳優の背が低くても、背の高い幽霊を見せることができればいいんですね。さっき僕が「物理的」といったのはつまり、ピラミッドの直線は、直線を見せるためのものではなく、幽霊的なものを見せるための直線だということです。ただ、それ以上のことは上手く言えないんですが。
山:(フォルムと言っても)直線を作りたいわけじゃなくて、幽霊を見せるひとつの方法なんですよね。でも、直線だから幽霊が見えるってことでもありますよね。
よ:そこは不可分ですね。
■文化の強度
よ:見えないものを見せることは、文化の強度に関わるものだと思うんです。例えば昨今の(アキバ系)オタク文化は、元々は男の性欲で始まるわけですけど、それがエロじゃくて何なんだ、ってレヴェルにいかないと文化と呼べないと思うんです。つまり見えるものを見えないものにしないと、文化と呼べないと思うんです。
(個人的な意見ですが)演劇には今、文化としての位相が見えてこないんですね。端的に言えば、やばさ、いかがわしさがなくなってしまっているんです。アングラ時代に対する憧れだとは思いますが、60年代のアングラには「俺たちはいかがわしいことをやっているんだ」っていう雰囲気を感じるんです。でも今は、単にヨーロッパに対する憧れしか感じない。
山:テーマパークこそ、やる気がありませんけどね(笑)。儲からないっていう言い訳はしていますけどね。強度を上げようという気がない。お店をやるのって、物理的に大変じゃないですか。ゲームセンターを運営するだけでも大変なんですよ。でも、お客さんからしたらそれは関係ないじゃないですか。
よ:演劇もそうですよ。
山:そういうことはお客さんにとってはどうでもいいということを、もっと意識しないといけない。
■物理的な問題
よ:物理的な問題で世界観が壊されてしまうってことは、芝居でももちろんありますよ。というか、いつもそうですよ(笑)。
山:くじけちゃダメですよね。
よ:ダメですよ(笑)。
山:致し方ないことってあると思うんですが、致し方ないって終わらせちゃダメですよね。
よ:むしろ、物理的制約あってこそだと思うんです。コンセプトの共有はもちろんなんですが、物理的な制約が出てきたときに、その責任がリーダー(人間)に向かないってことが大切だと思うんです。組織で信じているものが、リーダーだけのものでなくて、部下も持っているってことが必要なんです。そうした環境を作るためには「私がやりたい」とは言えないと思うんです。「私が」と言わないために、イメージを引用する必要があるんです。
例えば僕が芝居をやるときに「日本の怪奇譚」をテーマにしたとします。そのときに「俺は怪奇譚をやりたい」と言うべきではない。というか、自分でやっていても、「自分がやりたい」とはあまり思わないわけです。だから「日本の怪奇譚」を「僕たちが再現するんだ」という言い方がいいと思うんです。怪奇譚を(僕らが)やるっていうんじゃなくて、怪奇譚的なものを、自分(僕ら)に引き寄せるというのかな。
世界観を現出させるためには、責任を自分に向けないで、イメージの側に転嫁する。それが必要だと思うんです。それはつまり、私でも、あなたでもなく、そこにあるであろうものを探ることが、世界観を作り出すんだ、って僕は思うんです。
(後半に続く)
個人主義における死のイメージ③
■近代葬儀の成立のために
山:葬儀の成立には死生観があって葬式が起こるというよりも、葬式に参加することで死生観が形成されていく面があります。今の葬式がバッシングされているのは、死後の世界を想像させることができていない点ですね。
よ:社会の変化によって死のイメージが変わってきたわけですよね。しかし、それに合う形式が見つかっていない。今後、どういうことが考えられますか?
山:これは放っておいても変わらないと思います。今までは共同体全体が儀式を変えてきたんですが、共同体がなければ葬儀の形式は変わらない。そこで登場するのが、行政か葬儀社、寺社です。しかし行政は急務の課題ではないのでやりません。そこでやはり、葬儀社が変えていくのだと思います。葬儀社の人たちは今、汚い仕事というよりも文化の担い手だというプライドがあります。ただ、彼らに必要なのはパフォーマンス的考え方だと思います。理念が先行しているので、身体感覚レヴェルでの思考が必要です。私たちは今、遺体を遠ざけてしまっている。(素人の人は)触っていいのかすらわかっていない。本当は遺体をどう扱おうが構わないわけです。今はまだ、(葬儀は)過渡期なんですね。
■儀礼の社会学的分析
山:そもそも儀礼ってリミナリティ(*)の話で言えば、男の人が女に仮装したり。ヒエラルキーを転倒させる場なんです。人はお祭りがあるから社会生活に戻れる。ガス抜きをすることで社会が上手く成立するんです。だから非日常は生活必需品だと思います。エンターテイメントなんかは余暇の産物って言われますけど、非日常的な場に触れるとエネルギーが沸くわけじゃないですか。
私、調査でラオスに行っていたことがあります。ラオスはトイレがなくて共有していたりとか、キッチンもシステムキッチンじゃないし、冷暖房も整っていないんですが、実は一家に一台カラオケがあるんですよ。
よ:へー、面白いですね。
山:ラオスって社会主義国なんですけど、今は外貨獲得のために貿易をしているんです。企業は国民が生活必需品を買うと思っていたんですけど、カラオケセットを買ったわけですよ。つまりラオスの人は水洗トイレがなくてもいいと感じているんですよね。
よ:生活必需品って言いますけど、その社会における「必需品」って、もちろん違うわけですよね。
山:そう。どのレベルで満足しているか。生活に納得していれば、人が必要とするのは「娯楽」なんだと思うんです。
■現実世界から抜け出る
よ:それはあるフィクションのストーリーに共感するということですか?
山:私にとっては感銘を受けるとか、理性で学ぶことじゃないんです。身体化された現実から、一瞬抜け出るということ。
よ:それは抜け出たあとのエネルギーが大切ですか? 抜け出る瞬間が大切ですか?
山:うーん、どういうことですか?
よ:演劇って何の役に立つんですかって議論で、「元気が出る」とか「ストレス解消になる」とか精神的な健康って、僕はどうでもいいと思うんです。どれくらい抜け出たのかってことが大切だと思うんです。むしろ、自分の中にあるスイートな経験を「引きずっている」とさえ言えるんじゃないですかね。
山:あー、そういうことですか。それは、私もそう思います。でも抜け出るためには、強烈なコンセプトや世界観が必要ですよね。そこの努力を怠っているアート作品とかは、むかつきますね。
よ:そうですね。その強度について考えているんですが、ここが泥沼なんですよ(笑)。
山:葬儀の成立には死生観があって葬式が起こるというよりも、葬式に参加することで死生観が形成されていく面があります。今の葬式がバッシングされているのは、死後の世界を想像させることができていない点ですね。
よ:社会の変化によって死のイメージが変わってきたわけですよね。しかし、それに合う形式が見つかっていない。今後、どういうことが考えられますか?
山:これは放っておいても変わらないと思います。今までは共同体全体が儀式を変えてきたんですが、共同体がなければ葬儀の形式は変わらない。そこで登場するのが、行政か葬儀社、寺社です。しかし行政は急務の課題ではないのでやりません。そこでやはり、葬儀社が変えていくのだと思います。葬儀社の人たちは今、汚い仕事というよりも文化の担い手だというプライドがあります。ただ、彼らに必要なのはパフォーマンス的考え方だと思います。理念が先行しているので、身体感覚レヴェルでの思考が必要です。私たちは今、遺体を遠ざけてしまっている。(素人の人は)触っていいのかすらわかっていない。本当は遺体をどう扱おうが構わないわけです。今はまだ、(葬儀は)過渡期なんですね。
■儀礼の社会学的分析
山:そもそも儀礼ってリミナリティ(*)の話で言えば、男の人が女に仮装したり。ヒエラルキーを転倒させる場なんです。人はお祭りがあるから社会生活に戻れる。ガス抜きをすることで社会が上手く成立するんです。だから非日常は生活必需品だと思います。エンターテイメントなんかは余暇の産物って言われますけど、非日常的な場に触れるとエネルギーが沸くわけじゃないですか。
私、調査でラオスに行っていたことがあります。ラオスはトイレがなくて共有していたりとか、キッチンもシステムキッチンじゃないし、冷暖房も整っていないんですが、実は一家に一台カラオケがあるんですよ。
よ:へー、面白いですね。
山:ラオスって社会主義国なんですけど、今は外貨獲得のために貿易をしているんです。企業は国民が生活必需品を買うと思っていたんですけど、カラオケセットを買ったわけですよ。つまりラオスの人は水洗トイレがなくてもいいと感じているんですよね。
よ:生活必需品って言いますけど、その社会における「必需品」って、もちろん違うわけですよね。
山:そう。どのレベルで満足しているか。生活に納得していれば、人が必要とするのは「娯楽」なんだと思うんです。
■現実世界から抜け出る
よ:それはあるフィクションのストーリーに共感するということですか?
山:私にとっては感銘を受けるとか、理性で学ぶことじゃないんです。身体化された現実から、一瞬抜け出るということ。
よ:それは抜け出たあとのエネルギーが大切ですか? 抜け出る瞬間が大切ですか?
山:うーん、どういうことですか?
よ:演劇って何の役に立つんですかって議論で、「元気が出る」とか「ストレス解消になる」とか精神的な健康って、僕はどうでもいいと思うんです。どれくらい抜け出たのかってことが大切だと思うんです。むしろ、自分の中にあるスイートな経験を「引きずっている」とさえ言えるんじゃないですかね。
山:あー、そういうことですか。それは、私もそう思います。でも抜け出るためには、強烈なコンセプトや世界観が必要ですよね。そこの努力を怠っているアート作品とかは、むかつきますね。
よ:そうですね。その強度について考えているんですが、ここが泥沼なんですよ(笑)。
個人主義における死のイメージ②
■散骨について
山:(日本人は)死者に対する異様な雰囲気を感じてると思うんですが、病院で人が死んだり、遺体処理が代行されることで清潔な状態で「死」と接するようになる。すると、悲嘆の処理ばかりになるんです。私個人は、散骨はそれはそれでいいと思うんです。元々自然から生まれた人間を、また自然に返していくというのは、いいと思うんです。しかし、きちんとやらないと、ただ撒くだけになってしまう。そうすると悲嘆の収まりがつかないんですよね。
例えばお墓参りをしても、散骨の場合はぼーっとしているだけになってしまうんです。お墓がある場合は手続きがありますから。つまり時間がかかるわけですよ。お線香上げたり、お墓を拭いたり。来た人と一緒に話したり。でも散骨の場合はそういうことがないから、悲嘆の処理がないんですよ。
よ:散骨には形式はあるんですか?
山:それがないんですね。個人的にお坊さんが来る場合はありますけど、遺族が主体的に参加する儀礼はありません。
よ:手続きがないと、感情は処理されないですよね。
山:強制的な括りがありませんからね。儀礼はやることに意義がありますから。霊魂が成仏したかどうかよりも、「儀礼が終わったので、悲しむ時間は終わりました」ということが大切なわけです。(元々葬儀は)死を受け入れて、処理して、人生を組みなおすという儀式なので。手続きはあったほうがいいと思います。
よ:散骨には法事はあるんですか?
山:いや、それぞれですね。
よ:結構、グダグダなんですね。
山:そうなんです。
■死後の物語
よ:僕は法事って死後の物語に対するイメージだと思うんですね。つまり死んだ後にも物語が継続されるわけですよね。でも、法事がなくなってしまうと死者に物語がなくなってしまうわけですよね。それは、(死んだ側としても)嫌だと思うんです。
山:初七日とか、四十九日とか。あれは、初七日のときに位牌が変わるんですけど、魂が神様にランクアップしたという設定なんです。初七日、四十九日、一回忌、七回忌っていうように物語が継続されていくんです。
よ:なるほど。
山:今は祭壇形式になってしまったのでわかりづらいですが、お葬式は元々は一連の物語だったんですよね。以前は、「移動の儀式」だったんです。家をぶち抜いて葬列が出る。以前は葬列がメインで、死出の旅路のイメージなんです。それに参加することで、野辺送り(*)と言って、河原で焼いて、墓地に埋めて。帰ってこないように儀式をやる。家を出るときにお茶碗を割るとか。
でもそれが、大正時代に葬列が廃止されるんですね。それから、「祭壇」が生まれるんです。それはつまり「線の儀礼」から「面の儀礼」になるということです。以降祭壇が豪華になるんです。祭壇は亡くなった人があの世で送っているだろうすばらしい世界を現しているんですね。死出の旅路ではなくて、「今ここで成仏しました」ってことを示すんですね。
よ:僕は死後の世界がわかっているほうが、生きやすいと思うんですよ。
山:安心しますからね。
よ:死の世界は移り行くんだ、ということが実感できるわけじゃないですか。葬列から祭壇に変わることで、死のイメージが旅路からユートピア的なものになったわけですね。
山:そうです。
■死後のイメージ
よ:お経って、霊魂がどういう場所に行ったのかってことを言うんですよね? 確か霊が仏界に行く話しですよね。お経は聞いても意味がわからないけど、法事みたいに時間的なレベルで体験しないと実感できないと思うんですよね。そうじゃないと、仏教的な死とはいえない気がします。
山:私なんかは、イメージはバリエーションがあったほうがいいと思います。物語は細かいほどいいですね。だからこそ新しい形式がないといけないと思います。直葬というのがあって、儀式をしないですぐに遺骨を埋めてしまう。そういう物語を選択する人もいるんですが、よくわからずにグダグダなままに選択してしまうのは良くないと思います。
よ:例えば「自然に返す」のであれば雲散霧消していく先のイメージが必要ですよね。例えば海に返すなら、波の寄せては返す、生がおきてはまた消えていくというイメージ。森に返すのであれば、木々が生気し、生物が淘汰されていくイメージ。
山:体感できるってことが、葬儀の良さだと思うんです。でも今はまだ、場当たり的なんです。葬儀社はアフターケアはしないんですよ。それはお坊さんがやるわけで。だから遺族の人たちは場当たり的になってしまう。まだ過渡的なんですね。やはり形式は必要だと思います。
よ:個人主義、無宗教のイメージを作らないといけないってことですね。
山:そうですね。
山:(日本人は)死者に対する異様な雰囲気を感じてると思うんですが、病院で人が死んだり、遺体処理が代行されることで清潔な状態で「死」と接するようになる。すると、悲嘆の処理ばかりになるんです。私個人は、散骨はそれはそれでいいと思うんです。元々自然から生まれた人間を、また自然に返していくというのは、いいと思うんです。しかし、きちんとやらないと、ただ撒くだけになってしまう。そうすると悲嘆の収まりがつかないんですよね。
例えばお墓参りをしても、散骨の場合はぼーっとしているだけになってしまうんです。お墓がある場合は手続きがありますから。つまり時間がかかるわけですよ。お線香上げたり、お墓を拭いたり。来た人と一緒に話したり。でも散骨の場合はそういうことがないから、悲嘆の処理がないんですよ。
よ:散骨には形式はあるんですか?
山:それがないんですね。個人的にお坊さんが来る場合はありますけど、遺族が主体的に参加する儀礼はありません。
よ:手続きがないと、感情は処理されないですよね。
山:強制的な括りがありませんからね。儀礼はやることに意義がありますから。霊魂が成仏したかどうかよりも、「儀礼が終わったので、悲しむ時間は終わりました」ということが大切なわけです。(元々葬儀は)死を受け入れて、処理して、人生を組みなおすという儀式なので。手続きはあったほうがいいと思います。
よ:散骨には法事はあるんですか?
山:いや、それぞれですね。
よ:結構、グダグダなんですね。
山:そうなんです。
■死後の物語
よ:僕は法事って死後の物語に対するイメージだと思うんですね。つまり死んだ後にも物語が継続されるわけですよね。でも、法事がなくなってしまうと死者に物語がなくなってしまうわけですよね。それは、(死んだ側としても)嫌だと思うんです。
山:初七日とか、四十九日とか。あれは、初七日のときに位牌が変わるんですけど、魂が神様にランクアップしたという設定なんです。初七日、四十九日、一回忌、七回忌っていうように物語が継続されていくんです。
よ:なるほど。
山:今は祭壇形式になってしまったのでわかりづらいですが、お葬式は元々は一連の物語だったんですよね。以前は、「移動の儀式」だったんです。家をぶち抜いて葬列が出る。以前は葬列がメインで、死出の旅路のイメージなんです。それに参加することで、野辺送り(*)と言って、河原で焼いて、墓地に埋めて。帰ってこないように儀式をやる。家を出るときにお茶碗を割るとか。
でもそれが、大正時代に葬列が廃止されるんですね。それから、「祭壇」が生まれるんです。それはつまり「線の儀礼」から「面の儀礼」になるということです。以降祭壇が豪華になるんです。祭壇は亡くなった人があの世で送っているだろうすばらしい世界を現しているんですね。死出の旅路ではなくて、「今ここで成仏しました」ってことを示すんですね。
よ:僕は死後の世界がわかっているほうが、生きやすいと思うんですよ。
山:安心しますからね。
よ:死の世界は移り行くんだ、ということが実感できるわけじゃないですか。葬列から祭壇に変わることで、死のイメージが旅路からユートピア的なものになったわけですね。
山:そうです。
■死後のイメージ
よ:お経って、霊魂がどういう場所に行ったのかってことを言うんですよね? 確か霊が仏界に行く話しですよね。お経は聞いても意味がわからないけど、法事みたいに時間的なレベルで体験しないと実感できないと思うんですよね。そうじゃないと、仏教的な死とはいえない気がします。
山:私なんかは、イメージはバリエーションがあったほうがいいと思います。物語は細かいほどいいですね。だからこそ新しい形式がないといけないと思います。直葬というのがあって、儀式をしないですぐに遺骨を埋めてしまう。そういう物語を選択する人もいるんですが、よくわからずにグダグダなままに選択してしまうのは良くないと思います。
よ:例えば「自然に返す」のであれば雲散霧消していく先のイメージが必要ですよね。例えば海に返すなら、波の寄せては返す、生がおきてはまた消えていくというイメージ。森に返すのであれば、木々が生気し、生物が淘汰されていくイメージ。
山:体感できるってことが、葬儀の良さだと思うんです。でも今はまだ、場当たり的なんです。葬儀社はアフターケアはしないんですよ。それはお坊さんがやるわけで。だから遺族の人たちは場当たり的になってしまう。まだ過渡的なんですね。やはり形式は必要だと思います。
よ:個人主義、無宗教のイメージを作らないといけないってことですね。
山:そうですね。
個人主義における死のイメージ①
■近代葬儀の成立(1)
よ:ここ50年でできた葬式ってなんなんですか?
山:元々「葬式」っていうのは非日常的なことをする場なんですね。例えばご飯に箸を立てるっていうのは「ここが非日常空間ですよ」ってアピールなんです。
よ:ああ、なるほど。あれって縁起が悪いからやっちゃダメだって言われるけど、むしろ普段やらないから非日常空間でやるんですね。
山:もちろん相互補完しているわけですけど、意味不明なことをやることで非日常空間をかもし出すんです。そこで、「葬式」について言えば、前提として(生きている人は)喪失しているわけです。個人や共同体は、その人をよりどころにして生活をしていたのに欠けてしまう時に行われるわけです。そこで構成員・パーツが抜けてしまった環境を組み直すイベントが、葬式なんです。あれは今まで生きていた人を、死んだという設定、あの世で幸せにしていますよって設定にするんです。
よ:でも共同体が失われてしまうと、それは有効ではなくなってしまうんじゃないですか?
山:そうなんですよ。葬式はそもそも個人のためにやるわけではないので、土地ごとに正しいやり方が決まっていて、その正しい方法に沿って行われることで、(共同体が)組み替えられるんです。しかし、高度経済成長期以降、地方から都会に上京することで人がバラバラになってしまった。
私が修士論文で書いたのは、地方から東京に来た人の葬式の形態について書いたんですね。地方の人はガイドラインがあるんで、一方では封建的ですが、ある意味では葬式がやりやすい。けれど都会に上京した人は、何をやっていいかわからない。地元での方法は知っているけど、東京でのやり方はわからない。今は特に過渡期で、生活が個人ベースになってきているから「組み換え」が外圧的に要求されずに「自分らしさ」とか、宗教や家制度に対する嫌悪感や、お金がかけられない経済的な状況とか、霊魂の存在を否定する態度とか、いろんな要素が絡まってしまっているんです。その中で葬式をやっているのが彼らなんですね。
よ:葬式が、個別のもので、科学的なものになっていったんですね。
山:そうですね。
■近代葬儀の成立(2)
山:(とはいえ、個人だけではなく)社葬というものもあって、弔辞を読む順番とか、花輪を飾る順番とかで、次に誰が社長の後を継ぐのかってことがわかるようになっているんですね。でも、そうじゃない場合には「葬式だと知らない人を呼ぶのってかわいそう」とか考えるようになって、だんだんと葬儀がこじんまりしていくんです。
よ:「その人らしさ」ですか。でも、葬儀って共同体や組織だけでなく、遺族にとっての個別の意味もありますよね。
山:そうですね。お葬式には、悲嘆の処理という面もあるんです。(死ぬ前に)「自分が死んだらこういう葬式をしてほしい」って言う人もいますけど、やっぱり生きている人が「おじいちゃんらしい葬式をしてあげたい」とかって思うわけです。
フォーテス(*)が言っているんですけど、人間って親が亡くなると罪悪感を感じるんですね。自分が生きていることの後ろめたさとか。もっと卑近な例で言えば「もう何もしてあげられないんだ」とか。ただ、死んじゃったらしょうがないじゃないですか。それでも死んだ人に対して努力をしてしまうんです。
だから「亡くなった人らしい葬式をやる」とか、「きちんと葬式をする」って行為になってくるんです。まだ貢献できることがあるっていうレベルで行われているんです。それが悲嘆の処理です。(昔の)葬儀が豪華だった頃は、豪華にするほど、亡くなった人も癒されるだろうってレヴェルがあった。それで生きている人も癒される部分があった。でも今は小さく、アットホームであれば、喜んでくれるだろうという方向になっていく。
よ:つまり葬式の社会性は、失われているんですね。しかし、(個人で行われるとはいえ)寺社が葬式をやるのは、変わらないですよね。
山:お坊さんは、お葬式を仕切る人ではなかったんです。元々は共同体の中に弔い組というものがあったんです。お坊さんは、その中のパーツでしかなかった。しかし共同体がなくなったことで、お坊さんや葬儀社に頼むようになったんです。葬儀社も元々はお葬式に使う道具を貸してくれるものだったんですね。だから上京してきた人にとっては、何が正統かがわからないんですよ。
よ:でも正統ってのは、実際には誰もわからないですよね。そもそも寺社が葬儀を取り仕切っていたわけじゃないんですから。
山:田舎では間違ったことをやると変な目で見られるわけですよ。もちろん今でも「世間」というものがあって、その根拠を求めに葬儀社に相談するんですね。
■死者に対する感性
山:死の処理には四つあって、物理的な処理、霊魂の処理、悲嘆の処理、社会的な処理。死者の魂って、荒ぶるエネルギーを持っているとされているんですね。体から開放されて、魂がすごいエネルギーを発するんですね。
よ:なるほど。死者に対する畏怖の心ってキリスト教圏だと、天国か地獄かだから、日本ほどは大きくないのかもしれませんね。日本だと、人間が神になるわけですからね。
山:そうですね。
よ:タイの葬儀について知っていることがあるんですが、タイの葬儀はお金がすごくかかるんです。葬儀の時には祭りになるんですよ。神様の人形に遺骨を入れて焼くんですね。おめでたいことなんです。
でもそれがすごく金額がかかるから、集団でやるようになったんですが、まだそれでもかなり高価だから、おじいちゃんの腐った遺体を焼くため働いたりしているんですよね。それは、それだけ家族が強いんだと思うんです。いいことだとは思わないですけど、つまり日本との葬儀の形態は違いますよね。
山:自分が死んだ後にも弔ってもらうということが、どれだけ死に行く人の励みになるかって思うんですよ。ヨーロッパだと、病院の隣に墓地があったりもしますね。日本だとありえないですよね。近代医療にとっては死は負けなので、嫌がるのかもしれませんね。
よ:ここ50年でできた葬式ってなんなんですか?
山:元々「葬式」っていうのは非日常的なことをする場なんですね。例えばご飯に箸を立てるっていうのは「ここが非日常空間ですよ」ってアピールなんです。
よ:ああ、なるほど。あれって縁起が悪いからやっちゃダメだって言われるけど、むしろ普段やらないから非日常空間でやるんですね。
山:もちろん相互補完しているわけですけど、意味不明なことをやることで非日常空間をかもし出すんです。そこで、「葬式」について言えば、前提として(生きている人は)喪失しているわけです。個人や共同体は、その人をよりどころにして生活をしていたのに欠けてしまう時に行われるわけです。そこで構成員・パーツが抜けてしまった環境を組み直すイベントが、葬式なんです。あれは今まで生きていた人を、死んだという設定、あの世で幸せにしていますよって設定にするんです。
よ:でも共同体が失われてしまうと、それは有効ではなくなってしまうんじゃないですか?
山:そうなんですよ。葬式はそもそも個人のためにやるわけではないので、土地ごとに正しいやり方が決まっていて、その正しい方法に沿って行われることで、(共同体が)組み替えられるんです。しかし、高度経済成長期以降、地方から都会に上京することで人がバラバラになってしまった。
私が修士論文で書いたのは、地方から東京に来た人の葬式の形態について書いたんですね。地方の人はガイドラインがあるんで、一方では封建的ですが、ある意味では葬式がやりやすい。けれど都会に上京した人は、何をやっていいかわからない。地元での方法は知っているけど、東京でのやり方はわからない。今は特に過渡期で、生活が個人ベースになってきているから「組み換え」が外圧的に要求されずに「自分らしさ」とか、宗教や家制度に対する嫌悪感や、お金がかけられない経済的な状況とか、霊魂の存在を否定する態度とか、いろんな要素が絡まってしまっているんです。その中で葬式をやっているのが彼らなんですね。
よ:葬式が、個別のもので、科学的なものになっていったんですね。
山:そうですね。
■近代葬儀の成立(2)
山:(とはいえ、個人だけではなく)社葬というものもあって、弔辞を読む順番とか、花輪を飾る順番とかで、次に誰が社長の後を継ぐのかってことがわかるようになっているんですね。でも、そうじゃない場合には「葬式だと知らない人を呼ぶのってかわいそう」とか考えるようになって、だんだんと葬儀がこじんまりしていくんです。
よ:「その人らしさ」ですか。でも、葬儀って共同体や組織だけでなく、遺族にとっての個別の意味もありますよね。
山:そうですね。お葬式には、悲嘆の処理という面もあるんです。(死ぬ前に)「自分が死んだらこういう葬式をしてほしい」って言う人もいますけど、やっぱり生きている人が「おじいちゃんらしい葬式をしてあげたい」とかって思うわけです。
フォーテス(*)が言っているんですけど、人間って親が亡くなると罪悪感を感じるんですね。自分が生きていることの後ろめたさとか。もっと卑近な例で言えば「もう何もしてあげられないんだ」とか。ただ、死んじゃったらしょうがないじゃないですか。それでも死んだ人に対して努力をしてしまうんです。
だから「亡くなった人らしい葬式をやる」とか、「きちんと葬式をする」って行為になってくるんです。まだ貢献できることがあるっていうレベルで行われているんです。それが悲嘆の処理です。(昔の)葬儀が豪華だった頃は、豪華にするほど、亡くなった人も癒されるだろうってレヴェルがあった。それで生きている人も癒される部分があった。でも今は小さく、アットホームであれば、喜んでくれるだろうという方向になっていく。
よ:つまり葬式の社会性は、失われているんですね。しかし、(個人で行われるとはいえ)寺社が葬式をやるのは、変わらないですよね。
山:お坊さんは、お葬式を仕切る人ではなかったんです。元々は共同体の中に弔い組というものがあったんです。お坊さんは、その中のパーツでしかなかった。しかし共同体がなくなったことで、お坊さんや葬儀社に頼むようになったんです。葬儀社も元々はお葬式に使う道具を貸してくれるものだったんですね。だから上京してきた人にとっては、何が正統かがわからないんですよ。
よ:でも正統ってのは、実際には誰もわからないですよね。そもそも寺社が葬儀を取り仕切っていたわけじゃないんですから。
山:田舎では間違ったことをやると変な目で見られるわけですよ。もちろん今でも「世間」というものがあって、その根拠を求めに葬儀社に相談するんですね。
■死者に対する感性
山:死の処理には四つあって、物理的な処理、霊魂の処理、悲嘆の処理、社会的な処理。死者の魂って、荒ぶるエネルギーを持っているとされているんですね。体から開放されて、魂がすごいエネルギーを発するんですね。
よ:なるほど。死者に対する畏怖の心ってキリスト教圏だと、天国か地獄かだから、日本ほどは大きくないのかもしれませんね。日本だと、人間が神になるわけですからね。
山:そうですね。
よ:タイの葬儀について知っていることがあるんですが、タイの葬儀はお金がすごくかかるんです。葬儀の時には祭りになるんですよ。神様の人形に遺骨を入れて焼くんですね。おめでたいことなんです。
でもそれがすごく金額がかかるから、集団でやるようになったんですが、まだそれでもかなり高価だから、おじいちゃんの腐った遺体を焼くため働いたりしているんですよね。それは、それだけ家族が強いんだと思うんです。いいことだとは思わないですけど、つまり日本との葬儀の形態は違いますよね。
山:自分が死んだ後にも弔ってもらうということが、どれだけ死に行く人の励みになるかって思うんですよ。ヨーロッパだと、病院の隣に墓地があったりもしますね。日本だとありえないですよね。近代医療にとっては死は負けなので、嫌がるのかもしれませんね。
倉垣吉宏さんからの返信
お疲れ様。
面白いことをするなぁ。
でも気になるのは分かる。やから、思い付いたようにメールしてみた。

①
僕個人としては「震災」
いともたやすく思い出や、命が、瓦礫に埋もれて、ただの廃墟と化す
揺れた後の寒さ、恐怖、灰色ではなく薄青い冬の朝叫び、轟音、なにもない静寂
これが一番大きいし、以降、9・11などもあったけど、世間は大騒ぎして、確かに僕も関心を寄せはした(正確には、震災以降に、生死について身近に考えるようになったんだけど)震災ほど身近な出来事ではなかった。
②
僕が共感し、最も親近感を抱くイメージは"痛み"
心でも身体でも、ギリギリに切迫されたものや、その"痛み"の先にあるもんに興味関心をひかれる。"痛み"があるから、生きてる喜びにもつながるし、死への恐怖にもつながる。
"ジャンク"という感覚は、今の日本をよく捉えたイメージやなと思う。
なんでも"雑食"する人間、ことパクリ大好き日本人が到った境地なんかもしれへんけど、
僕はそこに"痛み"を感じられないと、"ジャンク"ってのが上手に生き残る手段になってしまい悲しい。
"ジャンク"でありたくないけど"ジャンク"にならざるを得ない、そんな状況下なら、苦しいけど、希望がある。
苦しくて、もがいているなら、それは純粋で良いと思うけどなぁ。
そんなんかな。
面白いことをするなぁ。
でも気になるのは分かる。やから、思い付いたようにメールしてみた。

①
僕個人としては「震災」
いともたやすく思い出や、命が、瓦礫に埋もれて、ただの廃墟と化す
揺れた後の寒さ、恐怖、灰色ではなく薄青い冬の朝叫び、轟音、なにもない静寂
これが一番大きいし、以降、9・11などもあったけど、世間は大騒ぎして、確かに僕も関心を寄せはした(正確には、震災以降に、生死について身近に考えるようになったんだけど)震災ほど身近な出来事ではなかった。
②
僕が共感し、最も親近感を抱くイメージは"痛み"
心でも身体でも、ギリギリに切迫されたものや、その"痛み"の先にあるもんに興味関心をひかれる。"痛み"があるから、生きてる喜びにもつながるし、死への恐怖にもつながる。
"ジャンク"という感覚は、今の日本をよく捉えたイメージやなと思う。
なんでも"雑食"する人間、ことパクリ大好き日本人が到った境地なんかもしれへんけど、
僕はそこに"痛み"を感じられないと、"ジャンク"ってのが上手に生き残る手段になってしまい悲しい。
"ジャンク"でありたくないけど"ジャンク"にならざるを得ない、そんな状況下なら、苦しいけど、希望がある。
苦しくて、もがいているなら、それは純粋で良いと思うけどなぁ。
そんなんかな。
森崇博さんからの返信
①
鮮烈且つ一番最初の記憶かもしれませんが、自分のまぶたを下げると世界が暗くなる!ということに気づいた瞬間です。
②
イメージとは常に自分の外部にあるものであり、何か触発される瞬間が飛び込んできて自分の中になんらかの形で発芽するもの、という意味では今現在共感ないし親近感を感じるものはありません。
以上です。
鮮烈且つ一番最初の記憶かもしれませんが、自分のまぶたを下げると世界が暗くなる!ということに気づいた瞬間です。
②
イメージとは常に自分の外部にあるものであり、何か触発される瞬間が飛び込んできて自分の中になんらかの形で発芽するもの、という意味では今現在共感ないし親近感を感じるものはありません。
以上です。
倉田大輝さんからの返信

①
小さい頃ということなので、僕はやはり「地下鉄サリン事件」ではないかと思います。当時まだ小学校の低学年だった鼻垂れ小僧にも、この事件は鮮烈なイメージを植えつけてきました。僕自身は田舎の出身なので、この事件当時は「都会は怖いんだなあ」なんていう風に感じながら、親と共にニュース番組を見てことをよく覚えています。この年になって、また自分が今現在都心で暮らすようになって、改めてこの事件の恐ろしさを再認識している自分がいます。

あとは「阪神淡路大震災」でしょうかね。この自然災害についても、幼少期の僕にはかなり地震の脅威を感じさせてくれた出来事ですね。でも、このふたつの事件とも、当時は幼かったので「漠然とした不安」という方が正しいかもしれません。親がニュースを見て感想を述べてたりするのが、子どもにはすごい影響力だったのだろうなあ、と思いますね。僕はこんな所です。

②
スタジオジブリの映画作品は、僕の周辺世代はほとんど見てるんじゃないでしょうか(笑)
こちらはちょっと難しいですね。僕自身が「こうだ」と思うことが必ずしも共感を得るイメージかどうかは分かりませんし…もう少し考えて、再度返事したいと思います。
送信メール
関係者各位
よこたです。一斉送信にて、失礼いたします。(回答できる方のみ、返答いただければ幸いです)
このたび、クリエーター、演劇・映像関係者の皆様方にアンケートを実施させていただくべく、メールを差し上げました。(※アンケートと言っても、統計を取ったりするものではなく、僕自身が「知りたい」と思ってメールしています。かなり一方的なメールで、すいません。。。)
よく「シミュラークル社会」とか「日本はジャンクだ」と言われますが、僕自身「ジャンク」という言葉がむしょうにしっくりきてしまう部分があります。「お芸術」的なものは難しくて理解できないし、田舎みたいに土くさいところはダメという都会っ子だし、マクドナルドが嫌いと言いつつもやっぱり食べてしまうときもあります。
それで、「これって僕だけか?」と、ちょっと(というか、かなり)疑問に思い、ついぞアンケートなどさせていただこうと思った次第です。(かなり強引ですいません)。
そこで皆様にお問い合わせしたいのは、
・「私たちの小さい頃の記憶で、鮮烈なイメージとして残っているものは何か」(芸術や文芸だけでなく、事件やニュースを含めていただいてかまいません)
・「今、私たちが共感する(ないし、親近感の沸く)イメージとは何か」
の二点です。
もし、ピンと来たり、似たようなテーマ・課題を考えている方がいらっしゃいましたら、返信いただければ幸いです。
また、いただいたメールはウェブサイトに掲載し、「往復書簡」という形で公表しながら、「この謎」について議論していこうと考えております。
今一度、ご協力いただければ幸いです。
http://performancestudiesinopenlaboratory.blogspot.com/2010/05/blog-post_12.html
※いただいたメールはウェブサイトに掲載させていただきたいと思います。掲載にあたって名前の公表や、一部掲載がマズイことがある方は、その旨もお伝えくださいませ。
長文、失礼いたしました。
よこたたかお
よこたです。一斉送信にて、失礼いたします。(回答できる方のみ、返答いただければ幸いです)
このたび、クリエーター、演劇・映像関係者の皆様方にアンケートを実施させていただくべく、メールを差し上げました。(※アンケートと言っても、統計を取ったりするものではなく、僕自身が「知りたい」と思ってメールしています。かなり一方的なメールで、すいません。。。)
よく「シミュラークル社会」とか「日本はジャンクだ」と言われますが、僕自身「ジャンク」という言葉がむしょうにしっくりきてしまう部分があります。「お芸術」的なものは難しくて理解できないし、田舎みたいに土くさいところはダメという都会っ子だし、マクドナルドが嫌いと言いつつもやっぱり食べてしまうときもあります。
それで、「これって僕だけか?」と、ちょっと(というか、かなり)疑問に思い、ついぞアンケートなどさせていただこうと思った次第です。(かなり強引ですいません)。
そこで皆様にお問い合わせしたいのは、
・「私たちの小さい頃の記憶で、鮮烈なイメージとして残っているものは何か」(芸術や文芸だけでなく、事件やニュースを含めていただいてかまいません)
・「今、私たちが共感する(ないし、親近感の沸く)イメージとは何か」
の二点です。
もし、ピンと来たり、似たようなテーマ・課題を考えている方がいらっしゃいましたら、返信いただければ幸いです。
また、いただいたメールはウェブサイトに掲載し、「往復書簡」という形で公表しながら、「この謎」について議論していこうと考えております。
今一度、ご協力いただければ幸いです。
http://performancestudiesinopenlaboratory.blogspot.com/2010/05/blog-post_12.html
※いただいたメールはウェブサイトに掲載させていただきたいと思います。掲載にあたって名前の公表や、一部掲載がマズイことがある方は、その旨もお伝えくださいませ。
長文、失礼いたしました。
よこたたかお
僕らが持っているイメージについての質問・回答
■果たして「演劇」において、私たちは何を見ているのだろうか。それは目の前にいる俳優なのか、それとも俳優が語る物語なのか。確かに、どちらかを選ぶことはできない。演劇の美学上の問題だけであれば、これは演劇の失墜だとか、演劇の死だとか言って、演劇人は早々に映画やアニメの製作に取り組めば良いのである。
だが、私たちが「劇場」という生臭い場所で未だにこうして戦い続けているのには、「ベッドタウン」という問題がひとつあるからじゃないかと思う。
画一化された「個性」と、どこにでもあるチェーン店。(進学や就職、友人関係などで)何かの拍子で「外界」に触れた時、私たちはあまりに自分が住んでいるところと外界の様相が違うことに驚いてしまう。
テレビが、インターネットが、マクドナルドが……自分が「メディア」としていた媒体は、本当に「真実」を私たちに伝えてくれたのだろうか。
もしこれが、イデオロギーの問題だけで片付くのであれば、事態は簡単である。文芸誌や専門誌を読み、自分が納得いく「世界」を信じればいいのである。
しかし、残念なことに私たちは「ベッドタウン」を故郷にしてしまった。今更「政府」というわかりやすい敵を相手にすればいいのだろうか、「商業主義」から逃れて隠遁生活をすればいいのだろうか、それとも古典古代の時代に理想を見つけて「教養主義」のスノッブになればいいのだろうか。
私は、ココが好きだ。ココには友達もいて、家族もいて、昔好きだった女の子もいたりして。
出世したいわけでもない。マクドナルドも嫌いではない。何も知らない、小市民でいい。
そういえば小さい頃、「ドラゴンボール」の「孫悟空」に憧れていた。そうそう、映画館に「スターウォーズ」を見に行った。アメリカでのテロ事件(9.11)のことは、まだ覚えている。
……私たちには、一体どんな「イメージ」が刻まれているのか。それを知り合い・関係者に尋ねてみた。
だが、私たちが「劇場」という生臭い場所で未だにこうして戦い続けているのには、「ベッドタウン」という問題がひとつあるからじゃないかと思う。
画一化された「個性」と、どこにでもあるチェーン店。(進学や就職、友人関係などで)何かの拍子で「外界」に触れた時、私たちはあまりに自分が住んでいるところと外界の様相が違うことに驚いてしまう。
テレビが、インターネットが、マクドナルドが……自分が「メディア」としていた媒体は、本当に「真実」を私たちに伝えてくれたのだろうか。
もしこれが、イデオロギーの問題だけで片付くのであれば、事態は簡単である。文芸誌や専門誌を読み、自分が納得いく「世界」を信じればいいのである。
しかし、残念なことに私たちは「ベッドタウン」を故郷にしてしまった。今更「政府」というわかりやすい敵を相手にすればいいのだろうか、「商業主義」から逃れて隠遁生活をすればいいのだろうか、それとも古典古代の時代に理想を見つけて「教養主義」のスノッブになればいいのだろうか。
私は、ココが好きだ。ココには友達もいて、家族もいて、昔好きだった女の子もいたりして。
出世したいわけでもない。マクドナルドも嫌いではない。何も知らない、小市民でいい。
そういえば小さい頃、「ドラゴンボール」の「孫悟空」に憧れていた。そうそう、映画館に「スターウォーズ」を見に行った。アメリカでのテロ事件(9.11)のことは、まだ覚えている。
……私たちには、一体どんな「イメージ」が刻まれているのか。それを知り合い・関係者に尋ねてみた。
2009年5月6日水曜日
対談:山本美緒⑤
■オン・ザ・ボーダー
よ:でもね、これは作為がまったくない方がいいってことではないと思うんです。たとえば恋愛の場合「ああ、俺はあの子のことが好きなんだ」って自己陶酔的になっていくほうが楽しいと思うんですよ。
山:そうそう、絶対それはそう。
よ:自然に好きになるっていうよりも、作為的に自己催眠的に恋をしている方がね。
山:そうそうそう。
よ:だから作為っていうのは必ずしも悪いことじゃない。だからお客さんと共犯関係をいかに結ぶのか、ってことが大切だと思うんです。僕の即興劇はなるべくお客さんにルールをオープンにする。演じている最中に「○○風に」っていう紙を引くんですね。たとえば「歌舞伎風」とか「ジョジョ風」とか。でも、あらすじは事前に決めておかないとグダグダになってしまう。俳優が洗練されていないと、面白くないんですよね。
山:それは俳優が思う「歌舞伎風」でいいわけ?
よ:そうそうそう、それでいい。俳優が勝手に思っている「ぽさ」だけでいいと思っているんですよ。歌舞伎に見えなくても、本人が歌舞伎っぽいと思っていればそれでいい。僕がやろうとしているのはドリフみたいなことなんですけどね。やっぱり、茶番ですね(笑)。でも、個人史が見えなきゃ面白くない。即興でやっていても、個人史が見えない人もいる。だから僕は生身がいいとは思わないし。パーソナリティって言ってもいいんだけども。
山:それは作られたものであってもいい?
よ:うん、それでいい。そこからしか切り取れないと思っています。「私ってなんだろう」ってつき詰まっていくと、「私ってなんでもない」ってことになってしまう。だから仮初のものでいいから、作業仮説としての「私」がないといけない。だから、演じる上でもパーソナリティを作為的に作ってもいい。ただ、そこに真実味があるかどうかなんですよ。でも本来、演劇っていうのはテクストが歴史を背負うべきなんだけど今の日本の演劇市場では歴史を背負っていない。だから俳優や作家が個人史を背負わなくてはならない。それは、日本の演劇環境の脆弱さだと思うんです。制度が必要だと思うんです、お客さんがある物語を知っているとか、そういう状態。でも、今はない。
山:確かに「片思いの女の子に会いにフランスに行く演出家」ってだけで、ある物語は生まれてくるよね(笑)。
よ:そうそうそう。オンザボーダー。現実でも虚構でもないってところで言うと、「幽玄の美」なんですよね。現実とか虚構ってものを乗り越えていくのが「幽玄の美」なんだよね。そこで僕が踏み込みたいのが、感性のことなんだよ。何をもって、僕たちが幽玄の美にいけるのか、オンザボーダーに立てるのか。何がそれなのかを追求していきたい。
山:うーん、確かに。それって、なんだろう。
中:なんなんでしょうか。
よ:「あとは、イベント当日を楽しみに」ってこと?
山:まあ、そうだね。
中:答えが今ここで、出るってことはありませんよ。
よ:じゃあ当日、作品をお楽しみに(笑)。ありがとうございました。
よ:でもね、これは作為がまったくない方がいいってことではないと思うんです。たとえば恋愛の場合「ああ、俺はあの子のことが好きなんだ」って自己陶酔的になっていくほうが楽しいと思うんですよ。
山:そうそう、絶対それはそう。
よ:自然に好きになるっていうよりも、作為的に自己催眠的に恋をしている方がね。
山:そうそうそう。
よ:だから作為っていうのは必ずしも悪いことじゃない。だからお客さんと共犯関係をいかに結ぶのか、ってことが大切だと思うんです。僕の即興劇はなるべくお客さんにルールをオープンにする。演じている最中に「○○風に」っていう紙を引くんですね。たとえば「歌舞伎風」とか「ジョジョ風」とか。でも、あらすじは事前に決めておかないとグダグダになってしまう。俳優が洗練されていないと、面白くないんですよね。
山:それは俳優が思う「歌舞伎風」でいいわけ?
よ:そうそうそう、それでいい。俳優が勝手に思っている「ぽさ」だけでいいと思っているんですよ。歌舞伎に見えなくても、本人が歌舞伎っぽいと思っていればそれでいい。僕がやろうとしているのはドリフみたいなことなんですけどね。やっぱり、茶番ですね(笑)。でも、個人史が見えなきゃ面白くない。即興でやっていても、個人史が見えない人もいる。だから僕は生身がいいとは思わないし。パーソナリティって言ってもいいんだけども。
山:それは作られたものであってもいい?
よ:うん、それでいい。そこからしか切り取れないと思っています。「私ってなんだろう」ってつき詰まっていくと、「私ってなんでもない」ってことになってしまう。だから仮初のものでいいから、作業仮説としての「私」がないといけない。だから、演じる上でもパーソナリティを作為的に作ってもいい。ただ、そこに真実味があるかどうかなんですよ。でも本来、演劇っていうのはテクストが歴史を背負うべきなんだけど今の日本の演劇市場では歴史を背負っていない。だから俳優や作家が個人史を背負わなくてはならない。それは、日本の演劇環境の脆弱さだと思うんです。制度が必要だと思うんです、お客さんがある物語を知っているとか、そういう状態。でも、今はない。
山:確かに「片思いの女の子に会いにフランスに行く演出家」ってだけで、ある物語は生まれてくるよね(笑)。
よ:そうそうそう。オンザボーダー。現実でも虚構でもないってところで言うと、「幽玄の美」なんですよね。現実とか虚構ってものを乗り越えていくのが「幽玄の美」なんだよね。そこで僕が踏み込みたいのが、感性のことなんだよ。何をもって、僕たちが幽玄の美にいけるのか、オンザボーダーに立てるのか。何がそれなのかを追求していきたい。
山:うーん、確かに。それって、なんだろう。
中:なんなんでしょうか。
よ:「あとは、イベント当日を楽しみに」ってこと?
山:まあ、そうだね。
中:答えが今ここで、出るってことはありませんよ。
よ:じゃあ当日、作品をお楽しみに(笑)。ありがとうございました。
対談:山本美緒④
■ルール、作為、意図
山:確かにクローズドになっているほうが面白いですね。
よ:そうか。僕の即興劇の場合は、お客さんにルールをオープンにして、そうした場で俳優が何をするかを見せようと思っているんです。
山:そのほうが見やすいとは思いますね。
よ:じゃあルールを閉じることの良さは何ですか?
山:ルールが垣間見える瞬間ですかね。
よ:それって、お話の筋はもういらないですよね。
山:いらないですね。
よ:筋のないものでもいい? ピナはありますけど。僕なんかチェルフィッチュを見て面白いと思えるのって、教養があるからだと思うんです。
山:そうかなあ。特異な身体を表出するためにルールを使うってことはありませんか?
よ:なるほど。
山:奇抜な身体だけが特異な身体とは言えないわけですよね。だから、感動的に見えたというこの経験を舞台に再現するということが方法ですよ。私は自分が見たいものを舞台上に上げたいと思うんです。
よ:じゃあ、自分が見た・経験したことを再現するために何かしらの措置が必要だと?
山:イメージを生み出すために、どういう仕掛けをしていけばいいのか、ということですね。
よ:僕はその仕掛けを強調線と呼んでいるんですが、その強調線ってどういうときに生まれますか? パフォーマー側にあるのか、観客にゆだねられているのか。強調線はどこにあるのか。さっきの話に戻せば、なぜおばちゃんを見てイメージが沸いてしまったのか?
山:ルールが閉じられているからだと思うんですよね。その場合は「偶然」ってことですね。他には台風が来たときに、電車が止まってしまって、みんな降りなくちゃいけなかった。そのときにパン屋に行ったんですけど、向かいの席が満席だったんですね。いつもはガラガラの席がそのときは満席だった。窓越しに見えたその風景は、すごく劇的でしたね。
よ:でも、そこにお金は払わないですよね。当たり前ですけど。これを劇場に持ち込めないんですよね。
山:そうですよねそれが課題なんですよ。作為なし、っていう。最低限の薄い作為で舞台上で人を動かして作品を作るっていうのに興味がありますね。舞台上にいる人たちのその場その場の判断、体調-化粧のノリが悪いとか-そういうのをひっくるめて「作品」という枠でくくるってことをしたいんです。
よ:やっぱり物語はないほうがいい?
山:今の興味としては、ないほうがいいですね。あってもいいんですが、わからない程度の物語がいいですね。
山:確かにクローズドになっているほうが面白いですね。
よ:そうか。僕の即興劇の場合は、お客さんにルールをオープンにして、そうした場で俳優が何をするかを見せようと思っているんです。
山:そのほうが見やすいとは思いますね。
よ:じゃあルールを閉じることの良さは何ですか?
山:ルールが垣間見える瞬間ですかね。
よ:それって、お話の筋はもういらないですよね。
山:いらないですね。
よ:筋のないものでもいい? ピナはありますけど。僕なんかチェルフィッチュを見て面白いと思えるのって、教養があるからだと思うんです。
山:そうかなあ。特異な身体を表出するためにルールを使うってことはありませんか?
よ:なるほど。
山:奇抜な身体だけが特異な身体とは言えないわけですよね。だから、感動的に見えたというこの経験を舞台に再現するということが方法ですよ。私は自分が見たいものを舞台上に上げたいと思うんです。
よ:じゃあ、自分が見た・経験したことを再現するために何かしらの措置が必要だと?
山:イメージを生み出すために、どういう仕掛けをしていけばいいのか、ということですね。
よ:僕はその仕掛けを強調線と呼んでいるんですが、その強調線ってどういうときに生まれますか? パフォーマー側にあるのか、観客にゆだねられているのか。強調線はどこにあるのか。さっきの話に戻せば、なぜおばちゃんを見てイメージが沸いてしまったのか?
山:ルールが閉じられているからだと思うんですよね。その場合は「偶然」ってことですね。他には台風が来たときに、電車が止まってしまって、みんな降りなくちゃいけなかった。そのときにパン屋に行ったんですけど、向かいの席が満席だったんですね。いつもはガラガラの席がそのときは満席だった。窓越しに見えたその風景は、すごく劇的でしたね。
よ:でも、そこにお金は払わないですよね。当たり前ですけど。これを劇場に持ち込めないんですよね。
山:そうですよねそれが課題なんですよ。作為なし、っていう。最低限の薄い作為で舞台上で人を動かして作品を作るっていうのに興味がありますね。舞台上にいる人たちのその場その場の判断、体調-化粧のノリが悪いとか-そういうのをひっくるめて「作品」という枠でくくるってことをしたいんです。
よ:やっぱり物語はないほうがいい?
山:今の興味としては、ないほうがいいですね。あってもいいんですが、わからない程度の物語がいいですね。
対談:山本美緒③
■特異な身体
よ:そういえば、昨日「たまたま」(※大木裕之主催。会場:武蔵小金井アートランド)に参加したときはどうだった?
中:昨日は特異な身体をまさに見せ付けられまして。40歳くらいのアニメーション作家の人がライブペインティングをするんですよ。それで、壁に絵の具を殴りつけたりして。用意していた紙がなくなってしまうくらいにやっていて。壁に絵の具を塗るもんだからスペースの壁も塗り替えなくちゃいけなくなって。あと、インクを口に含んで吐くとか、とにかく水とか絵の具が飛び散りまくっていて。その時、石田さんの目がイっちゃってて。詩人の松井茂さんと共演していたんですけど、松井さんは最初からやる気なくなっていて。石田さんが松井さんが読んでいる傍から目を見開いていて。松井さんの体にペンキをかけるって。……めちゃくちゃやるっていうのは誰にでもできそうだけど、それが圧倒的で。空気が変わっていまして。
よ:「身体」ってことで言えば、僕は前作(※「ブルーバード・オブ・スーパーフラット」3-4月上演)で見誤っていたんですけど、体から出る情報って言葉を簡単に圧倒しちゃうんですよね。前回はニコニコ動画のネタを利用して即興的に演じるというシーンを作ったんですが、その体から出る情報が強すぎちゃってネタが見えるというよりももはや暴力に感じてしまったんですよね。僕はそれは整理すべきだと思うんですよ。たとえば、俳優が太っていたり、体臭がしたりとか、そういうのがないと俳優じゃないのか? って思う。体ってのはあまりに自然すぎちゃって、ある程度統率して整理していかなくちゃいけないなって思ったんですよ。
山:私は、一体何が身体をより良く見せるのかってことを考えていますね。
よ:体を、表現に耐えうる体にするためには規制やルールは必要だと思うんです。たとえば、「からだ」に重きを置いちゃうと、島田洋七ががばいばあちゃんという物語を背負って講演会をすればいいっていう話になってしまうんですよ。だからバレエなんかは、個人が物語を背負えるように体を鍛えてきたと思うんですよね。物語を獲得するための方法論はないわけじゃないと思うんです。
中:でも石田さんが奇抜っていうんじゃなくて、一見普通の人なんだけど、それを超えて「やばいな」って感じる瞬間があった。普通の人間としてそこにいるという関係と、非日常的にそこにいると見える瞬間がある。予期せず物を壊してしまうとか、そういう瞬間に非日常的になってくる。それを行ったり来たりというのがあった。ずっと向こうの世界にいるわけじゃない。そこにスリルがある。
よ:それはどういうこと?
中:演じようと思って見せるところ、意図が見えているうちは面白くない。そこで起きているものが石田さんの感情や個人史が重なって見えたときに劇的に見えるってことじゃないですか?
よ:なるほど。個人史のレベルで考えると、ダムタイプなんかは上手くやった。古橋悌二がエイズでホモセクシャルで。でもそれは「ガンを乗り越えた俳優が」ってことでもいいんですよね。
中:でも、古橋悌二がエイズだから「S/N」が芸術だったわけじゃないですよね。
よ:そうだね。
中:あれは古橋悌二だけじゃなくて相対化する象徴的な人を使ったりすることでアレックス、ピーター、ブブさん。それぞれの個人史を象徴的に見えるようにしている。古橋悌二だけじゃない。
よ:それじゃあ、構成の上手さが作品の強度になるってこと?
中:構成だけじゃなくて、見ている人の個人史だったり、架空の人の個人史までも背負える雰囲気があって。それがよかった。
よ:あー、そうか。それこそ「オン・ザ・ボーダー」なわけか。
中:作為や意図が見えてしまうと、冷めてしまいますよね。
山:うんうんうん。
中:作為を見せないために、いかにルールを閉じるかってことだと思うんです。
よ:そういえば、昨日「たまたま」(※大木裕之主催。会場:武蔵小金井アートランド)に参加したときはどうだった?
中:昨日は特異な身体をまさに見せ付けられまして。40歳くらいのアニメーション作家の人がライブペインティングをするんですよ。それで、壁に絵の具を殴りつけたりして。用意していた紙がなくなってしまうくらいにやっていて。壁に絵の具を塗るもんだからスペースの壁も塗り替えなくちゃいけなくなって。あと、インクを口に含んで吐くとか、とにかく水とか絵の具が飛び散りまくっていて。その時、石田さんの目がイっちゃってて。詩人の松井茂さんと共演していたんですけど、松井さんは最初からやる気なくなっていて。石田さんが松井さんが読んでいる傍から目を見開いていて。松井さんの体にペンキをかけるって。……めちゃくちゃやるっていうのは誰にでもできそうだけど、それが圧倒的で。空気が変わっていまして。
よ:「身体」ってことで言えば、僕は前作(※「ブルーバード・オブ・スーパーフラット」3-4月上演)で見誤っていたんですけど、体から出る情報って言葉を簡単に圧倒しちゃうんですよね。前回はニコニコ動画のネタを利用して即興的に演じるというシーンを作ったんですが、その体から出る情報が強すぎちゃってネタが見えるというよりももはや暴力に感じてしまったんですよね。僕はそれは整理すべきだと思うんですよ。たとえば、俳優が太っていたり、体臭がしたりとか、そういうのがないと俳優じゃないのか? って思う。体ってのはあまりに自然すぎちゃって、ある程度統率して整理していかなくちゃいけないなって思ったんですよ。
山:私は、一体何が身体をより良く見せるのかってことを考えていますね。
よ:体を、表現に耐えうる体にするためには規制やルールは必要だと思うんです。たとえば、「からだ」に重きを置いちゃうと、島田洋七ががばいばあちゃんという物語を背負って講演会をすればいいっていう話になってしまうんですよ。だからバレエなんかは、個人が物語を背負えるように体を鍛えてきたと思うんですよね。物語を獲得するための方法論はないわけじゃないと思うんです。
中:でも石田さんが奇抜っていうんじゃなくて、一見普通の人なんだけど、それを超えて「やばいな」って感じる瞬間があった。普通の人間としてそこにいるという関係と、非日常的にそこにいると見える瞬間がある。予期せず物を壊してしまうとか、そういう瞬間に非日常的になってくる。それを行ったり来たりというのがあった。ずっと向こうの世界にいるわけじゃない。そこにスリルがある。
よ:それはどういうこと?
中:演じようと思って見せるところ、意図が見えているうちは面白くない。そこで起きているものが石田さんの感情や個人史が重なって見えたときに劇的に見えるってことじゃないですか?
よ:なるほど。個人史のレベルで考えると、ダムタイプなんかは上手くやった。古橋悌二がエイズでホモセクシャルで。でもそれは「ガンを乗り越えた俳優が」ってことでもいいんですよね。
中:でも、古橋悌二がエイズだから「S/N」が芸術だったわけじゃないですよね。
よ:そうだね。
中:あれは古橋悌二だけじゃなくて相対化する象徴的な人を使ったりすることでアレックス、ピーター、ブブさん。それぞれの個人史を象徴的に見えるようにしている。古橋悌二だけじゃない。
よ:それじゃあ、構成の上手さが作品の強度になるってこと?
中:構成だけじゃなくて、見ている人の個人史だったり、架空の人の個人史までも背負える雰囲気があって。それがよかった。
よ:あー、そうか。それこそ「オン・ザ・ボーダー」なわけか。
中:作為や意図が見えてしまうと、冷めてしまいますよね。
山:うんうんうん。
中:作為を見せないために、いかにルールを閉じるかってことだと思うんです。
対談:山本美緒②
■表現に耐えうる身体?
よ:山本さんが物語ではなく身体へって思ったきっかけはなんなんですか? 喉に手を突っ込んで、それが表現だといえますか?
山:自分のやってきたことは、結果的に表現になっただけであって、表現を作ろうと思ってやってきたことはありませんね。
よ:例えば、ピナ・バウシュの場合は舞台上に生理的なものを出すんだけど、意味があるように構成しますよね。
山:ピナの場合は、「からだ」があるから。
よ:ここでいうときの「からだ」ってなんですか?
山:表現に耐えうる「からだ」があるってことですかね。
よ:じゃあ、表現に耐えうる「からだ」ってなんですか? 鍛えなきゃいけない、とか。
山:それも一つの方法ではあると思うんですけど。
よ:鍛えられたダンサーが舞台上で殴られるのが面白い?
山:いや、そうじゃない。
よ:寺山みたいに、特異な身体が出てくるのが面白い?
山:表現する側が「これが私の欲求に基づいているんだ」と考えれば表現ですかね。
よ:じゃあ、山本さんがダンサーに指示するのは、表現にならない?
山:いや、それはなるんじゃないですかね。
よ:どうして?
山:見ている人がいるからかな。
よ:じゃあ、街頭で喧嘩しているのは表現になる?
山:広い意味で言えば表現になるんじゃないかなあ。
よ:酔っ払っているおっさんが喧嘩しているのは表現といえる?
山:例えば、生活をしていて、電車にいい組み合わせのおばさんが向かいに座っていたりして、そこに物語を感じるときがあるんですよね。
よ:……イメージが広がるというか。
山:そうそうそう。
よ:鑑賞者の態度で決まってしまうことになりませんか? 舞台上に三人のおばさんを乗っけても、僕は表現にはならないと思うんですよ。
山:そのときに受けたイメージを再現するためにはどうしたらいいだろうとは考えているんですけど……。よ:その面白さが何故なくなってしまうかと言うと、僕はコードが与えられたときに身体が見えなくなってしまうからだと思うんですね。おばちゃんの場合は、「このおばさんたちのシーンは何の目的があるの?」って考えてしまう。そうなると、身体は見えなくなってしまう。だから僕たちが考えていかなくてはならないのは、作品名や劇場というコードがある上でいかにしてそのイメージを見せるかってことだと思うんですね。日本の現代演劇はポツドールや平田オリザを経由していて、今後考えていかなくてはならない部分だと思う。
よ:山本さんが物語ではなく身体へって思ったきっかけはなんなんですか? 喉に手を突っ込んで、それが表現だといえますか?
山:自分のやってきたことは、結果的に表現になっただけであって、表現を作ろうと思ってやってきたことはありませんね。
よ:例えば、ピナ・バウシュの場合は舞台上に生理的なものを出すんだけど、意味があるように構成しますよね。
山:ピナの場合は、「からだ」があるから。
よ:ここでいうときの「からだ」ってなんですか?
山:表現に耐えうる「からだ」があるってことですかね。
よ:じゃあ、表現に耐えうる「からだ」ってなんですか? 鍛えなきゃいけない、とか。
山:それも一つの方法ではあると思うんですけど。
よ:鍛えられたダンサーが舞台上で殴られるのが面白い?
山:いや、そうじゃない。
よ:寺山みたいに、特異な身体が出てくるのが面白い?
山:表現する側が「これが私の欲求に基づいているんだ」と考えれば表現ですかね。
よ:じゃあ、山本さんがダンサーに指示するのは、表現にならない?
山:いや、それはなるんじゃないですかね。
よ:どうして?
山:見ている人がいるからかな。
よ:じゃあ、街頭で喧嘩しているのは表現になる?
山:広い意味で言えば表現になるんじゃないかなあ。
よ:酔っ払っているおっさんが喧嘩しているのは表現といえる?
山:例えば、生活をしていて、電車にいい組み合わせのおばさんが向かいに座っていたりして、そこに物語を感じるときがあるんですよね。
よ:……イメージが広がるというか。
山:そうそうそう。
よ:鑑賞者の態度で決まってしまうことになりませんか? 舞台上に三人のおばさんを乗っけても、僕は表現にはならないと思うんですよ。
山:そのときに受けたイメージを再現するためにはどうしたらいいだろうとは考えているんですけど……。よ:その面白さが何故なくなってしまうかと言うと、僕はコードが与えられたときに身体が見えなくなってしまうからだと思うんですね。おばちゃんの場合は、「このおばさんたちのシーンは何の目的があるの?」って考えてしまう。そうなると、身体は見えなくなってしまう。だから僕たちが考えていかなくてはならないのは、作品名や劇場というコードがある上でいかにしてそのイメージを見せるかってことだと思うんですね。日本の現代演劇はポツドールや平田オリザを経由していて、今後考えていかなくてはならない部分だと思う。
対談:山本美緒①
■なにが「リアル」?
よ:まず、僕が最初に議論を始めます。今までの演劇の方法論はメディアとしての信頼が前提となっていた。しかしその信用がなくなってしまったんじゃないか。すると、今の演劇を取り巻く環境というのは、あまりにも脆弱なんですね。具体的に言えば、僕らのレベルのアーティストが作品を作っても一般客が来ないとか。
山:うん。
よ:だからメディアとしての問題ではなく僕らが身体をどう考えているか、何に影響されているか、どういう感性を持っているのかを探っていくことでこの脆弱さを超えていきたいと思っているです。……まず、山本さんが2007年に製作した作品で手を喉に突っ込むということがあったと聞いたんですが、なぜ喉に手を突っ込むことがパフォーマンスになると考えたんですか?
山:そのときは芝居するんじゃなくて物理的にそういう状況を作って、吐くっていうのがリアルだと思ったんですよね。
よ:そんな極限状態まで作る必要はありますか?
山:そのときはそう思ったんですよね。
よ:……どうして?
山:なんでだろう。
よ:ポツドールに影響されたとか?
山:私はそのとき、演劇に見切りをつけていました。ほかの分野にいかないと自分がやりたいことは表現できないって。以前、山田うんさんのワークショップを受けたんですけど、そこでダンスの表現ならいけるんじゃないかって思ったんですね。(※元々早稲田大学「演劇倶楽部」に所属。俳優としても活動する)
よ:早稲田演劇がつまらないと感じていたとか?
山:それはありました。
よ:僕も早稲田の芝居は見ていますけど、「ろりえ」とかですかね。「ろりえ」は面白かった。
山:私がエンクラに入るときはろりえの前で、みんな具象、具象で芝居を作っていた。現実世界を踏襲する形で舞台上に上げていくという形のものが。
よ:リアリストの芝居ですよね。
山:狭い意味のリアリズムですよね。そこが私はつまらないと思った。
よ:早稲田にある芝居って必ずしもリアリスティックなものだけじゃないですか。そっちにはいかなったんですか? セカイ系の芝居とか。それこそ、「ろりえ」とか。なぜ生理的なリアリティに? いわば、ポツドール以上に狭い意味のリアリズムに行ったとも言えてしまうわけじゃないですか。
山:「からだ」に寄りたかったんですね。会話やストーリーで何かを見せるのではなくて、「からだ」に興味があったんですね。ストーリーというものにうんざりしていて。脚本を書いていると、お話にがんじがらめになってしまう。お話の展開から離れられなくて、それが嫌で。ダンスはそういうところから離れられるんじゃないかと思ったんですよ。
よ:僕は、物語を信じられなくなったというのは舞台という制度の信頼が失われたと考えているんですね。映画やテレビドラマにおいては信用はできるんだけど。物語を演じる俳優という制度を無批判には信じられなくなってしまった、と。これをメディアとしての演劇の失墜だと思っているんですね。そこで、次に身体というものが出てくる。さすがに身体を否定するやつはいないだろう、と。しかしポツドールの登場で限界が見えてきた部分がある。具象として見える世界がリアルだということではなくなってきた。僕らは身体を生身のものとしては扱えないと思うんですね。それでお客さんが満足するだろうとは思わない。生身で語れるものは少ない。しかし、身体じゃないと切り取れない何かがあるだろうと思っている。ただ、まだそれが明確に何なのかはわかっていない。……2007年の作品は生理的にリアリティを追求するわけですけど、それからも生理的なところで表現しようと思った?
山:しばらくは、そういう方向でしたね。踏まれるとか、殴られるとか(笑)。
よ:まず、僕が最初に議論を始めます。今までの演劇の方法論はメディアとしての信頼が前提となっていた。しかしその信用がなくなってしまったんじゃないか。すると、今の演劇を取り巻く環境というのは、あまりにも脆弱なんですね。具体的に言えば、僕らのレベルのアーティストが作品を作っても一般客が来ないとか。
山:うん。
よ:だからメディアとしての問題ではなく僕らが身体をどう考えているか、何に影響されているか、どういう感性を持っているのかを探っていくことでこの脆弱さを超えていきたいと思っているです。……まず、山本さんが2007年に製作した作品で手を喉に突っ込むということがあったと聞いたんですが、なぜ喉に手を突っ込むことがパフォーマンスになると考えたんですか?
山:そのときは芝居するんじゃなくて物理的にそういう状況を作って、吐くっていうのがリアルだと思ったんですよね。
よ:そんな極限状態まで作る必要はありますか?
山:そのときはそう思ったんですよね。
よ:……どうして?
山:なんでだろう。
よ:ポツドールに影響されたとか?
山:私はそのとき、演劇に見切りをつけていました。ほかの分野にいかないと自分がやりたいことは表現できないって。以前、山田うんさんのワークショップを受けたんですけど、そこでダンスの表現ならいけるんじゃないかって思ったんですね。(※元々早稲田大学「演劇倶楽部」に所属。俳優としても活動する)
よ:早稲田演劇がつまらないと感じていたとか?
山:それはありました。
よ:僕も早稲田の芝居は見ていますけど、「ろりえ」とかですかね。「ろりえ」は面白かった。
山:私がエンクラに入るときはろりえの前で、みんな具象、具象で芝居を作っていた。現実世界を踏襲する形で舞台上に上げていくという形のものが。
よ:リアリストの芝居ですよね。
山:狭い意味のリアリズムですよね。そこが私はつまらないと思った。
よ:早稲田にある芝居って必ずしもリアリスティックなものだけじゃないですか。そっちにはいかなったんですか? セカイ系の芝居とか。それこそ、「ろりえ」とか。なぜ生理的なリアリティに? いわば、ポツドール以上に狭い意味のリアリズムに行ったとも言えてしまうわけじゃないですか。
山:「からだ」に寄りたかったんですね。会話やストーリーで何かを見せるのではなくて、「からだ」に興味があったんですね。ストーリーというものにうんざりしていて。脚本を書いていると、お話にがんじがらめになってしまう。お話の展開から離れられなくて、それが嫌で。ダンスはそういうところから離れられるんじゃないかと思ったんですよ。
よ:僕は、物語を信じられなくなったというのは舞台という制度の信頼が失われたと考えているんですね。映画やテレビドラマにおいては信用はできるんだけど。物語を演じる俳優という制度を無批判には信じられなくなってしまった、と。これをメディアとしての演劇の失墜だと思っているんですね。そこで、次に身体というものが出てくる。さすがに身体を否定するやつはいないだろう、と。しかしポツドールの登場で限界が見えてきた部分がある。具象として見える世界がリアルだということではなくなってきた。僕らは身体を生身のものとしては扱えないと思うんですね。それでお客さんが満足するだろうとは思わない。生身で語れるものは少ない。しかし、身体じゃないと切り取れない何かがあるだろうと思っている。ただ、まだそれが明確に何なのかはわかっていない。……2007年の作品は生理的にリアリティを追求するわけですけど、それからも生理的なところで表現しようと思った?
山:しばらくは、そういう方向でしたね。踏まれるとか、殴られるとか(笑)。
2009年5月5日火曜日
対談:中堀徹⑥
(対談:中堀徹⑥)
■漫画『シンプルノットローファー』から見るモードという感性
よ:『シンプルノットローファー』(※衿沢世衣子著。女子高生の生活をオムニバス形式で描く)を中堀君は取り上げているけど、これはどうしてモードなの?
中:この漫画はとある女子高の一クラスの話なんですけど、一話に対して一人の女の子を描いていく。女の子たちが風景として描かれている。要は色々な軸があるわけですね。気の強い女の子もいれば、内気な女の子もいる。ここでは、一応のドラマはあるわけですけど、問題が解消されたり、発展したりはしないんですよ。「ちょっと変わりましたね」ってことを暗示して終わる程度に過ぎないんです。つまりモードチェンジをしていくわけですよ。
よ:優位があるわけじゃないから、コードチェンジではなくモードチェンジで進むわけだね。
中:そうそう、作品を通じて人間はこうあるべきだとかっていうのもない。価値観を相対化して差異が強調されるのみなんですよ。これを僕は絶対的な価値観が信じられなくなった後の世代の価値観だと思うんですよ。
よ:たとえば演劇のテクストって、物語がまだあるんだけど、東浩紀風にいえば「キャラクター」だろうけど、このモード的なものが「良い」って思える感性ってなんなんだろうね。
中:絶対がなくて、相対的にしか存在しないってことですかね。相対性理論(※音楽ユニット。電子恩が特徴)とかも、似ている雰囲気がありますしね。それがフラットだということ。あるイデオロギーで前進していくんじゃなくて、身体感覚レベルでそういうのが嫌悪的になっている。無限に日常が続くってことが僕たちにとっては普通でいいも悪いもない世界の身体感覚にいるんじゃないですかね。
よ:ああ良し悪しで言えばさ、コード進行の音楽よりもミニマルミュージックのほうが、鑑賞者のイメージが洗練されてくるんだよね。だから、この漫画について言えば漫画に対するリテラシーや人を見ていく態度が洗練されていくってことか。俺が好きなのは「よつばと!」(※あずまきよひこ著。片田舎でののんびりとした生活を描く)って漫画なんだけど、そこに出てくる女の子は成長するでもなく、事件があるわけでもない。淡々と日常が描かれていく。そういう方法のほうが、読者は「よつば」(※主人公の女の子)の細かい表情が読み取れるようになっていると思うんだよね。
中:知り合いに『シンプルノットローファー』の説明をすると「女子高の内面を表現しているんでしょ」って思われるんだけどそういうことは全くない。あるのは行為とか表情しかないんですよ。そしてそれが上手いんですね。
よ:女子高生の差異が、鮮明に見えてくるわけか。もしこれにストーリーがあったら、差異よりも「誰の物語であるか」ってことが見えてきてしまう。そうすると差異が見えなくなってしまう。「人間を観察する」ってことなのかな、この欲求は。
中:大きな物語の話じゃない場合に、より差異が強調されるわけですよね。モードチェンジというのはダラダラと永遠に続いてしまう。しかし、いくらでもできるからこそ一回性が強調されるわけですよ。「たまたま居合わせた私たち」が劇的になってくるわけですよね。この漫画のラスト、誰もいない学校の描写があるんですけど、そこに「どこにでもある、誰にでもある人間」なんだけど「この漫画に描かれた」という一回性が見えてくるわけですよ。「交換可能なんだけど、ここにいる」っていうのがドラマチックなんですよね。
よ:あー、なるほどね。わかったわかった。俺にはそれがロマンチックに感じられるわけだよ。大切なことは「それがロマンチックだ」って感性があるってことだよね。たとえば「ある女の子が挫折して成長する」っていうコード進行の物語ににロマンチックな気分になれた時代もあっただろうけれど、一方で俺たちは「交換可能だ」って世界に生きているわけだから「交換可能なんだけど、ここにいる」ってことがロマンチックに思えるわけだよ。『ブルーバード』についても、劇的に構成せずにフラットにしようと思ったのはそういうことなのかな。ここに描いた主人公たちは成長したらサラリーマンになるだろうし、ミチルとコウスケは別れもするだろうけれど、この「普通さ」をあえて舞台に上げることがロマンチックなんだってところなんだよ。
中:でも、だからこそ、微細に描かなきゃいけないですよね。
よ:そうそう。だから演劇の場合はイメージを微細にしなきゃいけない。ああ、そうだな、そういうことだ。冒頭のギャグシーンでイメージの差異を提出して、進行していくとモードチェンジしていく。そしてラストシーンでそれを回収する向きに進む。モードチェンジを徹底していきたいね。
中:そうか、そうですね。
よ:見えたね、見えたよ。
■漫画『シンプルノットローファー』から見るモードという感性
よ:『シンプルノットローファー』(※衿沢世衣子著。女子高生の生活をオムニバス形式で描く)を中堀君は取り上げているけど、これはどうしてモードなの?
中:この漫画はとある女子高の一クラスの話なんですけど、一話に対して一人の女の子を描いていく。女の子たちが風景として描かれている。要は色々な軸があるわけですね。気の強い女の子もいれば、内気な女の子もいる。ここでは、一応のドラマはあるわけですけど、問題が解消されたり、発展したりはしないんですよ。「ちょっと変わりましたね」ってことを暗示して終わる程度に過ぎないんです。つまりモードチェンジをしていくわけですよ。
よ:優位があるわけじゃないから、コードチェンジではなくモードチェンジで進むわけだね。
中:そうそう、作品を通じて人間はこうあるべきだとかっていうのもない。価値観を相対化して差異が強調されるのみなんですよ。これを僕は絶対的な価値観が信じられなくなった後の世代の価値観だと思うんですよ。
よ:たとえば演劇のテクストって、物語がまだあるんだけど、東浩紀風にいえば「キャラクター」だろうけど、このモード的なものが「良い」って思える感性ってなんなんだろうね。
中:絶対がなくて、相対的にしか存在しないってことですかね。相対性理論(※音楽ユニット。電子恩が特徴)とかも、似ている雰囲気がありますしね。それがフラットだということ。あるイデオロギーで前進していくんじゃなくて、身体感覚レベルでそういうのが嫌悪的になっている。無限に日常が続くってことが僕たちにとっては普通でいいも悪いもない世界の身体感覚にいるんじゃないですかね。
よ:ああ良し悪しで言えばさ、コード進行の音楽よりもミニマルミュージックのほうが、鑑賞者のイメージが洗練されてくるんだよね。だから、この漫画について言えば漫画に対するリテラシーや人を見ていく態度が洗練されていくってことか。俺が好きなのは「よつばと!」(※あずまきよひこ著。片田舎でののんびりとした生活を描く)って漫画なんだけど、そこに出てくる女の子は成長するでもなく、事件があるわけでもない。淡々と日常が描かれていく。そういう方法のほうが、読者は「よつば」(※主人公の女の子)の細かい表情が読み取れるようになっていると思うんだよね。
中:知り合いに『シンプルノットローファー』の説明をすると「女子高の内面を表現しているんでしょ」って思われるんだけどそういうことは全くない。あるのは行為とか表情しかないんですよ。そしてそれが上手いんですね。
よ:女子高生の差異が、鮮明に見えてくるわけか。もしこれにストーリーがあったら、差異よりも「誰の物語であるか」ってことが見えてきてしまう。そうすると差異が見えなくなってしまう。「人間を観察する」ってことなのかな、この欲求は。
中:大きな物語の話じゃない場合に、より差異が強調されるわけですよね。モードチェンジというのはダラダラと永遠に続いてしまう。しかし、いくらでもできるからこそ一回性が強調されるわけですよ。「たまたま居合わせた私たち」が劇的になってくるわけですよね。この漫画のラスト、誰もいない学校の描写があるんですけど、そこに「どこにでもある、誰にでもある人間」なんだけど「この漫画に描かれた」という一回性が見えてくるわけですよ。「交換可能なんだけど、ここにいる」っていうのがドラマチックなんですよね。
よ:あー、なるほどね。わかったわかった。俺にはそれがロマンチックに感じられるわけだよ。大切なことは「それがロマンチックだ」って感性があるってことだよね。たとえば「ある女の子が挫折して成長する」っていうコード進行の物語ににロマンチックな気分になれた時代もあっただろうけれど、一方で俺たちは「交換可能だ」って世界に生きているわけだから「交換可能なんだけど、ここにいる」ってことがロマンチックに思えるわけだよ。『ブルーバード』についても、劇的に構成せずにフラットにしようと思ったのはそういうことなのかな。ここに描いた主人公たちは成長したらサラリーマンになるだろうし、ミチルとコウスケは別れもするだろうけれど、この「普通さ」をあえて舞台に上げることがロマンチックなんだってところなんだよ。
中:でも、だからこそ、微細に描かなきゃいけないですよね。
よ:そうそう。だから演劇の場合はイメージを微細にしなきゃいけない。ああ、そうだな、そういうことだ。冒頭のギャグシーンでイメージの差異を提出して、進行していくとモードチェンジしていく。そしてラストシーンでそれを回収する向きに進む。モードチェンジを徹底していきたいね。
中:そうか、そうですね。
よ:見えたね、見えたよ。
対談:中堀徹⑤
(対談:中堀徹⑤)
■作劇法について
よ:俺なんかはさ、演劇の作劇法がもう一歩進められる部分があると思っているんだよ。
中:作劇ですか?
よ:テクストはまだ、儚さを包括できていないんだよ。テクストに儚さを盛り込めていない。そこが作劇がもう一歩進める部分だと思うんだよ。演技については一回性は言われたりしている。けれど一回性を取り込んだテクストというのは作られていない。
中:それは台詞を決めずに「即興する」ってことじゃダメなんですか?
よ:いや、そこにね「どういう即興か」とか「どういう感性か」ってことを書くべきだってことなんだよ。
中:そもそもよこたさんは台詞を書かずに構成することとかってないんですか?
よ:いや、やったことはあるよ。あと、寺山修司の台本とかそういう部分はある。けれど、それが作劇法としてはまだ立ち上がっていない。たとえば、文学においてエッセイという形式が立ち上がってきたように、演劇のテクストに作家の個人史を盛り込むなどして一回性を包括することはできないかなって画策しているんだよ。それが体系化されてもいいだろうしね。…まああとは、評価の問題だな。既存の戯曲賞にはそれを評価する軸はまだないわけだ。
中:音楽の場合、楽譜においては楽譜に絵を描くってこともあったけど、それって演奏家がメチャクチャ上手い人で微細なイメージを取り扱える人じゃないと演奏できないんですよね。
よ:やっぱりそれって、パフォーマーのリテラシーの問題になってしまう? 楽譜やテクストにそうした背景を盛り込むことは不可能なのかな?
中:伝えたいのは結局イメージなわけじゃないですか。蓄積がない人にも伝わるイメージってものがあればいいんですよね。
よ:そうそう、それが表象文化ってものの問題なんだよね。ロゴスではない方法で、ただし誤読されることがないような言語の開発。それが課題なんだよ。アカデミックでもそうだし、現場でもそれを必要としている。
中:諏訪さん(映画監督)の場合も、そういうことはやっているみたいですね。撮影現場の進行と台本を混ぜてみる、とか。諏訪さんがイメージを伝えるだけでなく、諏訪さんがイメージを伝えることもなくシーンが作られたりもするらしい。
よ:それは面白いね。
■作劇法について
よ:俺なんかはさ、演劇の作劇法がもう一歩進められる部分があると思っているんだよ。
中:作劇ですか?
よ:テクストはまだ、儚さを包括できていないんだよ。テクストに儚さを盛り込めていない。そこが作劇がもう一歩進める部分だと思うんだよ。演技については一回性は言われたりしている。けれど一回性を取り込んだテクストというのは作られていない。
中:それは台詞を決めずに「即興する」ってことじゃダメなんですか?
よ:いや、そこにね「どういう即興か」とか「どういう感性か」ってことを書くべきだってことなんだよ。
中:そもそもよこたさんは台詞を書かずに構成することとかってないんですか?
よ:いや、やったことはあるよ。あと、寺山修司の台本とかそういう部分はある。けれど、それが作劇法としてはまだ立ち上がっていない。たとえば、文学においてエッセイという形式が立ち上がってきたように、演劇のテクストに作家の個人史を盛り込むなどして一回性を包括することはできないかなって画策しているんだよ。それが体系化されてもいいだろうしね。…まああとは、評価の問題だな。既存の戯曲賞にはそれを評価する軸はまだないわけだ。
中:音楽の場合、楽譜においては楽譜に絵を描くってこともあったけど、それって演奏家がメチャクチャ上手い人で微細なイメージを取り扱える人じゃないと演奏できないんですよね。
よ:やっぱりそれって、パフォーマーのリテラシーの問題になってしまう? 楽譜やテクストにそうした背景を盛り込むことは不可能なのかな?
中:伝えたいのは結局イメージなわけじゃないですか。蓄積がない人にも伝わるイメージってものがあればいいんですよね。
よ:そうそう、それが表象文化ってものの問題なんだよね。ロゴスではない方法で、ただし誤読されることがないような言語の開発。それが課題なんだよ。アカデミックでもそうだし、現場でもそれを必要としている。
中:諏訪さん(映画監督)の場合も、そういうことはやっているみたいですね。撮影現場の進行と台本を混ぜてみる、とか。諏訪さんがイメージを伝えるだけでなく、諏訪さんがイメージを伝えることもなくシーンが作られたりもするらしい。
よ:それは面白いね。
対談:中堀徹④
(対談:中堀徹④)
■アーティストの役割
中:昨日、散歩がてら宮下公園(※NIKEパーク問題として活動家が立ち上がって反対運動を行っている。flea maisonの岡本拓が活動に参加をしている)に行ってきたんですけど、アーティストレジデンスの残骸があったんですよね。雨が降った後っていうのもあって汚いわけですよ。それは表現する上でのソースがあまりに貧困すぎているんです。「みんなの宮下公園」とかって書いてあるんですよ。そこで公共圏ってことを言いたいわけなんだけど、そこである女性が「私たちは自由だ」って書いたりしているんだけど、全然自由に見えない。というかむしろ自由に見えない。自由ってものを表現するソースが貧困で、全然ダメなんですよ。
よ:「自由」ってのは状態であって、言葉にしても意味がないんだよね。言うんじゃなくてさ状況を示さざるを得ないわけでしょ? 俺なんかが思うのは、それを「語る」ってことなんだよ。「自由」って言っちゃったらもうダメ。表面的な言葉ではなく内面化されているものと表象されているものの関係で見ていくべきなんじゃないかと思うんだよね。
中:自由って個々に違って、文脈が違うはずなのに一般的な「自由」で回収しようとする。自由って内面化された個々の文法で表現すればいいんだけど、そうしない。というかそもそもアーティストインレジデンスで表現するって、そこを丁寧に取り上げていくことなんじゃないのかって思ったんですよ。一般化することなんて誰にでもできるわけですよね。宮下公園にアーティストがいるんだから、そこはやるべきだと思ったんですよ。
よ:うんうん。演劇においてもそうで、物語やコードが先んじてしまうとそれは語りにならない。俳優がいかに語るかってことが大切だよね。
中:たとえば文脈を背負うってことに関しては、写真や映画のほうがやりやすいですよね。大木裕之さん(※映像作家。映像における哲学を探求しているのが特徴)の映画は、すごく写真っぽいと思ったんですよ。再現するんじゃなくて、記録する。記録したものを構成することで芸術にすることができてしまう。演劇の場合は、それを「再現」を介さなくてはならない。それが難しいとは思うんですよ。
よ:いや、でもそれはねそもそも写真と映画だけの話でね、絵画においても、音楽においても再現しなきゃいけないって壁は変わらないよ。
■アーティストの役割
中:昨日、散歩がてら宮下公園(※NIKEパーク問題として活動家が立ち上がって反対運動を行っている。flea maisonの岡本拓が活動に参加をしている)に行ってきたんですけど、アーティストレジデンスの残骸があったんですよね。雨が降った後っていうのもあって汚いわけですよ。それは表現する上でのソースがあまりに貧困すぎているんです。「みんなの宮下公園」とかって書いてあるんですよ。そこで公共圏ってことを言いたいわけなんだけど、そこである女性が「私たちは自由だ」って書いたりしているんだけど、全然自由に見えない。というかむしろ自由に見えない。自由ってものを表現するソースが貧困で、全然ダメなんですよ。
よ:「自由」ってのは状態であって、言葉にしても意味がないんだよね。言うんじゃなくてさ状況を示さざるを得ないわけでしょ? 俺なんかが思うのは、それを「語る」ってことなんだよ。「自由」って言っちゃったらもうダメ。表面的な言葉ではなく内面化されているものと表象されているものの関係で見ていくべきなんじゃないかと思うんだよね。
中:自由って個々に違って、文脈が違うはずなのに一般的な「自由」で回収しようとする。自由って内面化された個々の文法で表現すればいいんだけど、そうしない。というかそもそもアーティストインレジデンスで表現するって、そこを丁寧に取り上げていくことなんじゃないのかって思ったんですよ。一般化することなんて誰にでもできるわけですよね。宮下公園にアーティストがいるんだから、そこはやるべきだと思ったんですよ。
よ:うんうん。演劇においてもそうで、物語やコードが先んじてしまうとそれは語りにならない。俳優がいかに語るかってことが大切だよね。
中:たとえば文脈を背負うってことに関しては、写真や映画のほうがやりやすいですよね。大木裕之さん(※映像作家。映像における哲学を探求しているのが特徴)の映画は、すごく写真っぽいと思ったんですよ。再現するんじゃなくて、記録する。記録したものを構成することで芸術にすることができてしまう。演劇の場合は、それを「再現」を介さなくてはならない。それが難しいとは思うんですよ。
よ:いや、でもそれはねそもそも写真と映画だけの話でね、絵画においても、音楽においても再現しなきゃいけないって壁は変わらないよ。
対談:中堀徹③
(対談:中堀徹③)
■一回性の美学
よ:でもさ、これって次の問題としてはお客さんに一回性の良さを理解してもらわなきゃいけないんだよね。
中:そうですね。遠藤一郎さん(※現代美術作家。ライブペインティングなどを積極的に行う)のパフォーマンスなんかは、僕にとっては一回性じゃなくて再現に見えちゃうんですよ。どんなに激しくパフォーマンスしようがうそ臭く見えてしまう。けど「たまたま」の石田さんの場合はぎこちなさも含めて、あの場でしか起こりえなかったということを感じる。そこに一回性がある。
よ:俺の考えだとね、日本の芸術は一回性に重きをおいてきたと思うんだよね。西洋は普遍ってことを求めたんだけど西洋においても現代は一回性を強調し始めた。日本の芸術には蓄積があるわけだから、そこから学ぶということがあってもいいはずなんだよ。
中:能は特にそうですね。僕が思うのは、映画『スターウォーズ』の冒頭のテロップで「ここに宇宙がある、その宇宙の中の一つの物語です」と提出してくるんですよね。観客は「宇宙」を見せ付けられることで、立場が不安定になる。けれどこれから、ある一つの物語を見るんだっていうところに儚さを感じることができると思うんです。能なんて、僕が見るとすごくそう感じるんですね。松の木は一応あるわけだけど「どこでもない空間」というものにすごく見える。
よ:確かにそれはそうなんだけど、俺の解釈だと、能というのは「どこでもない空間」じゃなくて、空間を作る完成度が高いということだと思うんだよ。スターウォーズでいうところの「宇宙」を見せるクオリティがすごく高い。
中:菊地成孔(※ジャズ演奏家。作曲家)がモードをテーマにしたCDがあるんですけど、何も尺八とかを使わずともそこで日本を表現できるんじゃないかって試みているんですよ。「花と水」(※ジャズアルバム。2009年発売)というタイトルなんですけど、モード的な感性がそもそも日本的なんじゃないかってことで作っている。そのイメージは秀逸だなと思ったんですよ。ジャズとはそういうものだし、日本の感性はそういうところがあると思った。西洋の花っていうのは、絶対に枯れない花にしちゃう。でも日本の場合はかれるからこそ美しいと言える。滅び行くものへの感性、絶対がないという絶対性という感性。これがすごいと思う。
■一回性の美学
よ:でもさ、これって次の問題としてはお客さんに一回性の良さを理解してもらわなきゃいけないんだよね。
中:そうですね。遠藤一郎さん(※現代美術作家。ライブペインティングなどを積極的に行う)のパフォーマンスなんかは、僕にとっては一回性じゃなくて再現に見えちゃうんですよ。どんなに激しくパフォーマンスしようがうそ臭く見えてしまう。けど「たまたま」の石田さんの場合はぎこちなさも含めて、あの場でしか起こりえなかったということを感じる。そこに一回性がある。
よ:俺の考えだとね、日本の芸術は一回性に重きをおいてきたと思うんだよね。西洋は普遍ってことを求めたんだけど西洋においても現代は一回性を強調し始めた。日本の芸術には蓄積があるわけだから、そこから学ぶということがあってもいいはずなんだよ。
中:能は特にそうですね。僕が思うのは、映画『スターウォーズ』の冒頭のテロップで「ここに宇宙がある、その宇宙の中の一つの物語です」と提出してくるんですよね。観客は「宇宙」を見せ付けられることで、立場が不安定になる。けれどこれから、ある一つの物語を見るんだっていうところに儚さを感じることができると思うんです。能なんて、僕が見るとすごくそう感じるんですね。松の木は一応あるわけだけど「どこでもない空間」というものにすごく見える。
よ:確かにそれはそうなんだけど、俺の解釈だと、能というのは「どこでもない空間」じゃなくて、空間を作る完成度が高いということだと思うんだよ。スターウォーズでいうところの「宇宙」を見せるクオリティがすごく高い。
中:菊地成孔(※ジャズ演奏家。作曲家)がモードをテーマにしたCDがあるんですけど、何も尺八とかを使わずともそこで日本を表現できるんじゃないかって試みているんですよ。「花と水」(※ジャズアルバム。2009年発売)というタイトルなんですけど、モード的な感性がそもそも日本的なんじゃないかってことで作っている。そのイメージは秀逸だなと思ったんですよ。ジャズとはそういうものだし、日本の感性はそういうところがあると思った。西洋の花っていうのは、絶対に枯れない花にしちゃう。でも日本の場合はかれるからこそ美しいと言える。滅び行くものへの感性、絶対がないという絶対性という感性。これがすごいと思う。
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